質問:生きる力と貧富の関係性
質問の前に少し自己紹介させてください。
いま休学して旅をしていて、シンガポールにいます。
教育学部で学んでいるうちに、なんで働くんだろう?なんで教育があるんだろう?と考えるうちに、自分は教育という領域の中でどう働いてどう生きたいのか?ということを考えるために自分探しの旅に出ています。
三井さんの写真、どの労働者の方も確かにカッコよかったです。
ただ、いまの日本人労働者っていうとオフィスでの仕事をイメージします。三井さんの写真の方々は生きているっていう躍動感がある。そして嫌々やっている感じがしない。でも僕の日本人の労働者にはそのイメージがない。。なぜこんなに違うんでしょう?
貧困を美化しているわけではないというのは過去の質問箱を読ませていただいているのでわかっています。が、旅をしていると貧困な国の方からは生きる力というかエネルギーを感じます。逆に豊かな国の方が時間に追われて生の実感がないような気がします。
旅をして様々なものをみている、三井さんは労働することと、生きる力、そして貧富の関係性についてどう思いますか?
三井の答え
貧しさとは何なのか? 豊かさとは何なのか?
このような根源的な疑問は、ズバッと簡単に答えが出せるものではありません。もしズバッと簡単に答えを出している人がいたとしたら、その言葉は眉につばをつけて聞いた方がいいでしょう。たとえば「世界の貧困の原因は○○である」というような単純でわかりやすい言説には、よくよく注意するべきです。
ひとつ言えるのは、「貧しさを『発見』するには他者の存在が不可欠だ」ということです。貧しさや豊かさは相対的なもの。自分と他人とを比較することで(今風に言えば、格差が存在することによって)、はじめて貧しさや豊かさが人の意識の上にのぼってくるのです。
村人がすべて同じような生活レベルの村には「貧しさ」は存在しません。朝早く起きて山に薪をとりに行き、重い水瓶を抱えて長い道のりを往復し、痩せた土地にクワを振り下ろして雑穀を育てる。我々から見れば、とても貧しい生活です。しかし村人たちにとっては、それは当たり前の日常でしかないのです。
僕が撮るアジアの人々の姿を見て、「かつて日本もこうだったよ」と言ってくれる年配の方がいます。日本も戦後間もない頃はとても貧しかった。でも当時は誰もが同じように貧しかったから、それは当たり前のことで、とりたてて不幸なことではなかった。今は確かに貧しいけれど、頑張って働けばいつかみんな豊かになる。そういう物語を信じることができたから、人々はなんとなく明るい気分で暮らしていたのでしょう。
グローバル化が進む時代とは、世界中で次々に「貧しさ」が発見されていくことを意味しています。地域の誰もが等しく貧しかった牧歌的な時代は終わり、70億の人々が地球規模の競争に巻き込まれていく。地球がひとつの市場になり、誰もが自分の貧しさと豊かさを単一の基準で推し量られるようになる。この流れを止めることは、おそらく不可能でしょう。
そんな時代にあって、僕は世界各地の働く人の姿を撮ってきました。
きつい仕事、危険な仕事、汚れ仕事、安い仕事、単調な仕事、楽しそうな仕事、奇妙な仕事。
さまざまな仕事を見ることによって、「この世界が多様である」という事実を確認したかったのです。
この世界は「貧しさ」と「豊かさ」や、「勝ち組」と「負け組」などに、単純に二分できるはずがない。そう信じているからです。
僕は自分の写真を「世界のはたらきものに贈る賛歌」だと思っています。
もちろん勝手に歌っているのです。誰に頼まれたわけでもありません。
東ティモールの海岸で出会った少年と同じです。
漁師であるこの少年は、すさまじいスコールが降りしきる中、空に向かって両手を広げて、大声で歌をうたっていました。大粒の雨に打たれながら、心が躍動するのを押さえきれなかったのでしょう。
とりたてて意味のある行動ではありません。(僕を除いて)誰も彼のことなんて見ていない。それでも彼は歌わずにはいられなかった。空と雨とこの世界とを、讃えずにはいられなかったのです。
「あんたたちはすごいよ。美しいよ。素晴らしいよ」
そう感じながらシャッターを切ると、その気持ちが写真にも写り込む。そういうものです。
ただ生きるために、精一杯働いている。その姿は僕にとってとても美しいものなのです。
「このような理不尽で搾取的な低賃金労働は、社会にとって大きな問題だ。すみやかに改善されねばならない」
という問題意識を持ってジャーナリスティックに撮れば、ちゃんとそのように写ります。そこには鋭い問題提起はありますが、希望はありません。
僕はどちらかと言えば希望を撮りたいのです。
働くことは贈り物であり、希望であると思うから。
写真集「この星のはたらきもの」の中で、僕はこう書きました。
人は働くことによって、贈り物をしているのだと僕は思う。
買ってくれるお客さんのために、養うべき家族のために、属している共同体のために、そしてこの世界のために。
誰もがささやかな贈り物をしているのだ。
きっとあなたもこの世界への「贈り物」を持っているはずです。
それは「人に教える」ということかもしれないし、それとはまったく別のものかもしれない。
予想もしなかったところに、意外な答えが転がっているかもしれません。
僕も来月からまた旅に出ます。
次の旅でも、きっと多くの「はたらきもの」に出会えると信じています。
そして彼らを讃える歌をたくさん歌ってくるつもりです。