とある町を歩いていたとき、商店街に貼り出されていた一枚の広報ポスターが目にとまりました。普段はそんなものに注意を払うことはないんだけど、「あれ?何か変だな」と思ったので、近づいてよく見てみたのです。そこには中学生を対象にした絵画コンクールの受賞作が載っていました。そしてその絵は、僕が以前撮った写真にそっくりだったのです。

 構図も人物の表情も着ている服の色も背景までもまったく同じでした。盗作というよりは完コピ。もちろん僕に使用許可を求める連絡は何もありませんでした。それが絵画コンクールの優秀作品として表彰され、県全域に広く掲示されているという事実に対して、僕は何とも言えない気持ちになりました。この絵を描いた中学生自身は「盗作はやってはいけないこと」という認識はなかったのかもしれないけど、このまま見過ごすわけにもいかない。

 その出来事をツイートしたところ、すぐに大きな反響があり、その日のうちにコンクールの主催者が知ることになりました。そして学校を通じて絵を描いた中学生本人にも連絡が行き、受賞を辞退するという結果になったのです。

 ここまで迅速に事態が動くことになるとは、正直なところまったく予想していませんでした。ツイッターというのは、良くも悪くも反応が瞬間的で過剰なところがあって、投稿者の思惑を軽く超えてしまうときがある。ビジュアル的にわかりやすかったこともあるのでしょう。気が付いたらリツイートが1万を超えていた。僕は受賞者の中学生本人から経緯の説明と謝罪を受けた段階でツイートを削除するつもりだったのですが、いわゆる炎上に近い案件になってしまったので、コンクール主催者から「中学生本人が謝りたいと言っているので連絡先を教えてください」という連絡が来た段階で、ツイートを削除することにしたのです。

 僕がツイートした翌日の午後に、中学生本人と保護者から謝罪の電話がありました。彼女の説明によれば、グーグルの画像検索で見つけた写真を、深く考えることなく模写して応募してしまったとのこと。小中学生でも「課題をネットで調べてそのまま書き写す」ってことが当たり前になった今だからこそ起きた一件なのだなと改めて思いました。

 彼女の画力は確かだし(じゃなきゃ最優秀賞には選ばれないと思います)、僕の写真をお手本に選んだことについては嬉しいという気持ちもあったので、「これからも絵は続けてね。上手い下手は抜きにして、あなたのオリジナルの絵を描いてください」と話しました。彼女にはこの失敗を糧にして、前に進んで欲しいと思っています。

 昨日、この件について取材したいという共同通信の記者の方から電話がかかってきたときに、「学校の指導やコンクールの選考過程にも問題があると思いますか?」と質問されたのですが、僕は「それはないと思いますよ」と答えました。ネット上にこれだけ多くの情報が氾濫していて、それを誰もが簡単に利用できる環境の中で、先生や選考委員が応募作の盗作や剽窃をすべて見抜くのは不可能です。選ぶ側の責任を問うたり、チェック体制をより厳しくしろといった方向に話が進むのは、かなり不毛な結果を生むのではないかと思います。

 今回の場合は、彼女が「ネットで閲覧できる画像にも著作権があり、それを写し取ったものを自分の作品として発表してはいけない」という(大人にとっては当たり前の)ルールを理解していなかったために起きた出来事だったので、その点を学校で周知徹底すればある程度は防げるのかもしれません。しかしそれでも「子供が簡単にネットにアクセスできる環境」があるかぎり、安易な盗用や剽窃をゼロにするのは不可能だし、今後もこうした出来事は全国各地で起こり得ると思います。

 結局のところ、僕ら大人がやるべきなのは、創作活動をしている子供たちに対して「オリジナルであることの素晴らしさやかけがえのなさ」を体を張って伝えることなのだと思います。いくら「盗作はダメだ」とか「剽窃は罪だ」とか言っても、当人が「そっちの方が楽だし、親にも先生にもウケる」と思っているかぎり、あまり効果はない。それよりも有効なのは、子供たちに「オリジナルな作品を生み出すことが、どれほど大変で、どれほどワクワクする経験なのか」を知ってもらうことだと思います。

 写真家は誰しも「自分にしか撮れない写真」「オリジナルの表現」を目指して写真を撮っています。そのために毎日身を削っています。だからこそ、作品には敬意を払って欲しいし、安易なコピーや剽窃はして欲しくない。たとえ相手が中学生であってもそのことは理解して欲しいですし、中学生であれば十分に理解できることだと思います。

 賞を取るとか、その道の権威に認められたりすることよりも大切なのは「オリジナルであること」だと僕は思います。自分の内側から湧き出てくる衝動や、何かを美しいと感じる心の動き。そういったものをエネルギーにして表現する人の作品には、誰にも真似のできないオリジナリティーが宿ります。

 僕が写真を撮るときに、被写体として惹かれるのも「オリジナリティーのある人」です。ロヒンギャの村で畑を耕す男や、インドの山奥で風の力を使って脱穀する農民、タミルナドゥの染色工場で働くマッチョな労働者。自分たちの仕事を淡々とこなしているだけなんだけど、その姿が「ここにしかない光景」になっている。そういう人たちを数多く撮ってきました。誰にも知られていない存在だからこそ、僕がいま撮る価値があるのだと信じてシャッターを切ってきたのです。

 

india18-09499

 数年前、「ネットで集めた世界の絶景写真集」が次々に出版された時期は、「写真にオリジナリティーなんてものを誰も求めちゃいないのかなぁ」と悩んだりもしたけど、それでも僕は自分が撮りたいものだけを撮ってきた。それが結果的に「無駄にカッコいい男たち」というあまり前例のない写真集になったのです。

 それまで、インドの働く男たちに注目する人なんてほとんど誰もいなかったけど、僕は彼らの姿がものすごくカッコいいと感じた。その美しさや力強さを多くの人に伝えたいと思った。それが「渋イケメンの国」の出版につながり、それを読んだ人の「インドの見方」を少し変えることになったのです。

 絵画や音楽や文章表現などのクリエイティブな活動を学校が後押しして、子供たちに「作る喜び」を知ってもらうという試みは素晴らしいと思います。模範解答が存在しないものにチャレンジするって、すごく大変だけど、すごく大切なことだと思うから。

 AIは模範解答を知っている。グーグルは過去にあった出来事をすべて記憶している。そういう時代にあって、自分にしか生み出すことができないオリジナルな表現を身に着け、それを探究するということが、子供たちが未来を生き抜くためにもっとも必要な力になると思います。

 真似たり写したりするのはラクだけど、つまらないよ。
 ヘタでもいいから、失敗してもいいから、今度はあなたが本当に表現したいものを創ってください。