質問:写真うつりが悪い
いつも「たびそら」が更新されるのをワクワクしながら待っている一読者です。初めて質問します。「旅の質問箱」に相応しいかどうかわからない個人的な質問ですが、答えていただければ幸いです。
私は子供の頃から写真写りが悪い方だと思ってきました。写真に撮られるのがとても嫌だったのです。集合写真なんかでも、いつも後列の隅っこで小さくなっています。
三井さんが撮っているポートレートを拝見していると、どれもため息が出るほど美しいので、「ひょっとしたら私でもキレイに撮ってくれるのかしら?」などと思ってしまいます。
人によって写真写りの善し悪しというのはあるものなのでしょうか?
それとも重要なのは写真の腕の方なのでしょうか?
三井の答え
僕は写真うつりの善し悪しというものは、基本的にはないと思っています。
もちろん、移ろいゆく人の表情のほんの一瞬を切り取った写真には、連続した時間の中での実体とはかけ離れた印象を与えるものもあります。しかしそれさえも、現実の一側面であることには変わりないのです。
写真というのは冷徹で客観的な画像の定着です。サン=テグジュペリが『人間の土地』の中で、「飛行機は分析の道具である」と言っているけれど、写真機にも同じことが言えます。「カメラは分析の道具」なのです。
その客観的な画像の定着に対して、「私はこんな顔ではない」と目を伏せたりするのは、その人の客観的なイメージと、自分自身が思い描く主観的なイメージとのギャップが原因ではないかと思います。
誰だって不美人よりは美人の方がいいし、美男の方がいいと心の底では思っているはずです。でも実際にそうである人は少数です。「こうありたい自分」と「現実の自分」との差は誰もが持っていて、それが大きい人ほど「写真うつりが悪い」と思いたがるのではないでしょうか。
僕自身のことを振り返ってみても、やはり「写真うつりが悪い」と思っていた時期がありました。自分が写っている写真を見るとがっかりするものだから、中学や高校時代に撮られた集合写真や卒業アルバムなんかは、なるべく見ないようにしてきました。
たぶん自意識過剰だったのでしょう。現実にある客観的な自分と、自己イメージとが合致していないということを認めたくなかったので、写真の方を否定していたのだと思います。
でも、年を経るに従って、自分の写真を見たり、自分の顔を鏡を眺めたりしても、たいして何も思わなくなりました。まぁ鏡を覗き込んで「よし、今日もいい顔してる!」なんて声を掛けたことは一度もありませんし(そういうことをやっている人もいるらしいですね)、相変わらずあまり冴えない顔がそこにはあるわけですが、「こんな顔でもいいか」と思えるようになってきたのです。
大人になるということは、そのようにして現実の自分に折り合いを付けていくことなのかもしれません。
ところで、僕は「たびそら」の立ち上げ当初からプロフィールに顔写真を載せてきたので、「顔に自信があるんですか?」などと聞かれることもあるのですが、さっきも書いたように決してそんなことはありません。
それではなぜ顔写真を公開するのか。それはやはり僕自身が「撮る側」の人間だからでしょう。何万人という人を撮り続けている人間が、その作品のプロフィールに自分の顔を出さないのはフェアではないと思うのです。
それから僕は、匿名であり顔が見えないことが当たり前であるホームページやブログに、あえて顔を出すことには価値があるとも考えています。名前や顔を隠すことによって思ったことを何でも書ける自由が得られるのは確かですが、それと引き替えにその言葉の信頼性を失っているという事実は肝に銘じておくべきです(その典型が「2ちゃんねる」ですね)。顔って、それがどんな顔であれ、とても大切なものなのです。
ご質問の件に戻りましょう。
僕はこれまでに数多くの人の顔を撮ってきましたが、その立場から言えば、人の顔には「美しい顔」「美しくない顔」という基準の他にも、「味のある顔」や「味のない顔」という基準や、「存在感のある顔」「存在感のない顔」という基準もあります。好みというものも、人によって大きく違います。
「写真うつりが悪い」と思い込んでいる人でも、そのような別の基準から自分の顔を見直してみると、新しい発見があるかもしれません。