日本の安全神話はなぜ崩壊したか

サイトデザインの全面的なリニューアルに伴って、何日もかけて過去のブログ記事を整理しました。不要な情報はばっさり削除し、残す記事は見やすく整える。そんな作業を続けていると、あっという間に時間が経ってしまいます。なにしろ「たびそら」は立ち上げてから15年の歴史がありますから、情報量も膨大なのです。

久しぶりに過去のブログを読み返してみると、改めて気付かされることがたくさんありました。過去の品々を整理しようと手に取ったら懐かしさに浸ってしまって全然引っ越しが進まない人、みたいになっていました。

2009年に書いた「日本の安全神話はなぜ崩壊したか」という記事は、読者とのやり取りを長い記事にしたのですが、今読んでもなかなか面白い。

この記事の中で僕が言いたかったのは「日本の犯罪率は上がってなどいないし、安全神話は崩壊していない。ただ、滅多に起こらなくなった凶悪犯罪をメディアが凄まじい情報量で連日報道するので、体感的に『危ないから、子供を近所の公園で遊ばせられない』と感じる親が増えているのだ」ということでした。

2009年当時、僕にはまだ子供がいなかったから、「あなたに子を持つ親の気持ちなどわかるはずがない」といういくぶん感情的な反論を受けて、それに対する再反論から論考が深まっていったわけです。

このやり取りの1年後に娘が生まれて、僕も晴れて子を持つ親になったわけですが、それによって意見が変わることはありませんでした。僕は今でも「日本は子供にとって安全な国だ」と感じているし、「世界でも稀なほど凶悪犯罪の少ない国だ」と考えています。
 

 
でも「子を持つ親」という立場になってみると、あのとき僕に反論したふじこさんに対して、もっと思いやりのある言い方ができたはずだ、と思ったのです。今の自分なら、あんな風に突き放した言い方はしなかったはずだと。

親というのは、特に母親というのは、我が子を脅かす危険に対して非常に敏感になるものです。ありとあらゆるセンサーを駆使して、子供に降りかかる危険因子を感知し、それを取り除こうとする。これは本能、そう母性本能によるものです。

だから「冷静になってください。統計上、日本の犯罪は増えていないじゃないですか」と言っても、「落ち着いていられるものか。実際に犯罪は起きているじゃないか!」という感情的な反発を招いてしまう。「あの人は私の気持ちを理解できない冷たい人だ」と感じさせてしまう。大切なのは目の前の「我が子」であって、統計上の数字や一般論は無意味なのです。
 
 

子育ては理屈じゃない

子育ては決して一般論で語ることができないものだ。僕は我が子を育ててみて、そのことを強く実感しています。実際、我が子が置かれた状況について一般論からわかった風な口を利く人に対して、感情的な反発を覚えたこともたびたびありました。

子育ては理屈じゃない。本能的に感情的に没頭して、無我夢中になってやるものです。自分がいま何を感じているのかにフォーカスし、我が子だけにエネルギーと愛情を注ぐ。そうしないことには、子育てみたいな大変なことは乗り越えられないのです。

だから、ふじこさんにはもっと別の伝え方をするべきだった。理屈で組み伏せるのではなく、理解と受容から始めなければいけなかった。反省しています。
 

 
さて、2009年の記事を貫いているのは「オブセッション(強迫観念)」という概念です。このとき僕が念頭に置いていたのは、マスメディアが伝える偏った情報によってオブセッションが作られていく怖さでした。犯罪は減少しているはずなのに、なぜ我々の安心感はいつまでも低いままなのか。それは情報がリピートされることによって作られるオブセッションに囚われているからではないかと。

しかし、6年間我が子を見つめてきてわかったのは、「オブセッションは人間の本能に深くインプットされている」という事実です。ほとんど何の情報も与えられていない赤ちゃんであっても、根拠のない恐怖におののくことがある。

もちろん怖がり方には個人差があります。平気で道路に飛び出していく無鉄砲な子供もいます。その一方で、僕の娘は生まれたときから異様なまでの怖がりでした。もう何にでも怖がる。エレベーターは怖いし、他の赤ちゃんが隣にいるだけでも怖いし、目に見えないぐらい小さなノミも怖がる。ちょっとでも味が違う食べ物は受け付けないし、ぬるま湯でも熱がるし、物音にもものすごく敏感でした。危険を感知するセンサーのボリュームが最大値に設定されているようでした。とにかくいつでもどこでも些細なことで盛大にアラームが鳴り響く。怖い、不快だ、といって全力で泣き叫ぶのです。

もともと危険に対するセンサーが敏感な人もいれば、そうでない人もいる。これはどうやら遺伝的に設定された「閾値」の違いによる個性のようです。その性質は基本的には変わらない。敏感な人は、その敏感さと上手く付き合いながら成長していくしかないのです。
 
 

人類が生き延びるための「遺伝子戦略」

それではなぜ、敏感な人と鈍感な人がいるのか。恐怖を強く感じる人と、未知のものを怖れない人がいるのか。これはおそらく人類が集団として生き延びるために必要な「遺伝子戦略」なのでしょう。

サバンナに暮らしていた数万年前の人類は、周囲を外敵に囲まれて暮らしていた。多くの場合、臆病な人、恐怖を早く強く感じる人の方が生き延びる確率は高かったはずです。外敵を怖がらずにやぶの奥に足を踏み入れてしまったら、たちまち肉食獣の餌食になってしまう。好奇心に駆られて見知らぬキノコを口に入れ たら、毒に当たって死んでしまう。

しかしみんながみんな臆病だったら、新天地を求めて旅に出る人もいなかったはずです。ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ広がった人たちのように、失敗を怖れずにチャレンジする人がいたからこそ、今日の人類の拡散と繁栄があったのです。つまり人類を集団としてみたとき、危険に敏感な人と鈍感な人が一定の割合で共存していた方が、生き延びる確率が高かったのだと考えられます。
 

 
どうやら僕は、未知のものに対する恐怖をあまり感じないタイプのようです。だから初めて訪れる場所でも、さほど緊張せず普通に歩ける。でも娘は僕とは正反対の気質を持っています。安全が確保された安心できる場所を何よりも必要としています。最初はこの性質の違いに戸惑い、苛立つこともあったけど、長い時間を共に過ごすことで、彼女のことを理解し、気質の違いを楽しめるようになりました。
 
人の性質というものは、生まれたときからはっきりと違う――それは娘が僕に教えてくれたことのひとつです。
人間というのは、生まれたままで十分すぎるほどに個性的なんですね。