「山写」という山岳カメラマンの登山歴が嘘っぱちだったと話題になっていた(のを今ごろになって知った)。山写氏のブログは以前に何度か見たことがあって、風景写真の現像技術も含めてたいしたもんだなぁと単純に感心していたんだけど、まさか写真界のショーンKだったとは驚きだ。

 「詐欺師は人を引きつける魅力的な物語を持っていて、素人がそれを見抜くのは不可能」といつも言っているけど、山写氏はその典型例だ。インドの詐欺師連中もそうだし、栗城さんや小保方さんとも共通しているのは、その物語が面白くてつい引き込まれてしまうということ。人柄で判断してはいけない。

 旅で経験したことを「盛りたい」という誘惑は誰にでもあって、一人旅なら誰も見ていないから「ま、これぐらいならいいか」と嘘や作り話を始めてしまうと、後戻りできなくなる。8000m峰登山のように厳密な記録が求められる冒険ではなくても、やっぱり旅人も写真家も嘘をついてはいけない。

 

 多くの人は「詐欺師の嘘は簡単に見抜けるはずだし、自分は騙されない」と信じている。でも僕には「絶対に詐欺師には騙されない」という自信はない。栗城さんの嘘も、山写さんの嘘も、最初は見抜けなかったからだ。人間の直感や洞察力には限界がある。そのことをいつも肝に銘じている。

 世の中には何の罪悪感も感じることなく、平然と、息をするように嘘をつく人がいる。自分の嘘の物語に酔いしれ、嘘を嘘で塗り固める人生を送る人がいる。栗城史多さん、小保方晴子さん、佐村河内守さん、日垣隆さん、ショーンKさん、山写さん。とても興味深い人々だ。

 特に栗城史多さんは嘘の大きさ、その影響力、そして自分の身を滅ぼした結果などを総合すると、インドのケチな詐欺師たちとは比べものにならないほどの偉大(?)な詐欺師だ。

 栗城史多さんの人生には「盛大な嘘で多くの人を騙し続けて、最後は転落していった」という悲劇性と喜劇性が同居した、ある種のおかしみを感じる。それも登山家として初期の段階でついた小さな嘘を嘘で塗り固めるうちに、降りるに降りられなくなったのだろう。気になった人は「栗城史多」で検索してほしい。

※栗城さんのことを検索してみたけど、情報が多すぎてよくわからなかったという方がいたので、とりあえずここを読んでおけば何が問題だったのか理解できる、というページを紹介します。
https://w.atwiki.jp/kuriki_fan/
https://moriyamakenichi.com/2017/06/blog-post_9.html

※※2020年11月に出版された「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」は、綿密な取材によって栗城さんの実像に迫ったノンフィクションです。実際に栗城さんをサポートしたシェルパにもインタビューを行い、彼が「無酸素」でも「単独」でもなかったという(まさに核心的な)事実を明らかにしています。栗城史多が本当は何者だったのか知りたい方には一読をお勧めします。

 

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 ツイッターで以上のような投稿をしたら、すぐに「栗城さんは平然と、酔いしれていたんでしょうか? 本人の本当の胸の内は本人しかわからないですよ。言うのは簡単ですよね。事実はどうあれ亡くなってしまった人のことをおかしみとか、詐欺師とか、かっこよくキメてるようで言ってること全然かっこよくないです。一連のツイート、悲しくなりました。」というリプライが寄せられた。

 それに対する僕の返信は以下の通り。
「亡くなったら、ついた嘘がすべて消えて「頑張っていた良い人」になるなんてことはありませんよ。嘘の記録は永遠に残ります。ネットをご覧ください。彼が繰り広げた欺瞞の物語を信じたまま生きていくのもいいでしょう。それはあなたの生き方です。でも真実を知りたいなら、やるべきことがあるはずです。」

 

 いまだに栗城さんを信じている人からの反応は「悲しくなった」「亡くなった人を悪く言わなくても」という情緒的なものだ。これは「他人を信じる判断の基準を主に感情に頼る人」が、詐欺師に騙されやすいという事実を反映している。重視すべきなのは第一印象や人柄ではない。自分が置かれている状況と確かめられる事実なのだ。

 山写さんと栗城さんの嘘を暴いた登山ライターの森山憲一さんは、山写さんに実際に会った瞬間に「彼は登っていない」と確信したという。でもそれは登山業界に身を置くプロだからできる判断であって、登山に詳しくない素人は、彼らが繰り出す華麗な嘘の数々に幻惑され、信じ込んでしまう。

 僕だって最初にNHKの番組で栗城さんを見たときは、単純に「頑張っている若者がいるんだな」と思っただけだった。疑わしいとは思わなかった。しかしその後次々と登山歴や「単独無酸素」という謳い文句に対する疑惑が出てきたときに、これはクロだと判断したのだ。

 

 心酔し、応援していた人が嘘つきだったと認めるのは辛い。自分の「人を見る目のなさ」を認めなければいけないからだ。心理学的に「認知的不協和」と呼ばれる不快な状態に置かれたとき、詐欺師の嘘を認めるのではなく、その嘘を糾弾する側を非難することで不快感を解消しようとするのは、実によくある行動だ。

 DVを繰り返す配偶者とずっと一緒にいるという「共依存」の関係も、予言が外れた新興宗教の教祖が信者を失わずに済むのも、「認知的不協和」に直面すると正常な判断ができなくなるという人間の判断力の限界を示す例だ。山写さんも栗城さんも、嘘を暴かれた後もなお一定数の擁護者がいた(そして今もいる)。

 詐欺師の内面がどうなのかは、わからない。葛藤や良心の呵責があるのかもしれない。苦しみながら(あるいは喜びながら)嘘をつくのかもしれない。我々に判断できるのは「詐欺師の言葉が事実かどうか」それだけだ。騙された自分を責めるべきではない。事実を受け入れ、認識をアップデートすればいい。

 

 栗城さんや山写さんの話と、コルカタの詐欺師グループの話は根底で繋がっている。詐欺師は「人を信じたい」という純粋な気持ちを利用し、「みんな仲良く助け合おう」という信頼ベースの社会に慣れきった人々を裏切るトリックスターなのだ。だからこそ魅力的で、そして厄介な人々なのだ。

 僕は栗城さんのことが好きでも嫌いでもなくて、「興味深い人物」だと思っていた。平気で嘘をつく人って存在としてミステリアスだし、人を惹きつける「何か」を持っている。だから、その正体を知りたいと思ったのだ。栗城さんの場合、ある種の「弱さ」が多くの人を惹きつけたのだと感じている。

 身体的・精神的な「弱さ」を、「親しみやすさ」や「感情移入のしやすさ」という文脈に置き換えて、「エベレスト単独無酸素登頂」という超人にしかなし得ないような偉業を「その辺の兄ちゃんでもできるんだよ」というライトな物語に仕立て上げた。それが栗城史多さんの新しさだったんだと思う。

 

 栗城さんの「物語」は、登山にはあまり興味がない一般の人々から支持されて、多額の資金を得て、メディアにも注目されるようになったんだけど、彼は決して登山の実力を磨くことはなく、毎年同じような敗退を繰り返して、ついには山の事故で亡くなってしまった。

 栗城さんは自分の「弱さ」を克服するのではなく、失敗を反省するのではなく、常に新しい言い訳を用意して、詭弁を弄しながらチャレンジ(という名のお約束のルーティーン)を繰り返していた。最後には「失敗の共有」という奇想天外な言い訳を編み出して、登頂失敗さえも正当化するようになった。

 栗城さんの「弱さ」の物語は、もちろん本物の冒険ではない。しかし本物の冒険ではないからこそ、ある種の人々には強い共感を持って受け入れられたのだと思う。弱さを抱えた私たちの延長線上に栗城「くん」がいる、という感覚。スーパーマンではなくても最高峰を目指せるのだ、という感覚。

 歌が下手でも「一生懸命だから」という理由で応援するアイドルファンのことを否定することができないように、登山の実力がなくても「頑張っているから」という理由で応援する栗城ファンのことを否定することはできない。もし彼が嘘さえつかなければ、ガチの登山界と共存できたのではないかと思う。

 

 詐欺師の転落は、たいていの場合、自分がついた嘘を自分自身が信じすぎてしまうことによって始まる。栗城さんの事故は、困難なルートでのエベレスト登頂など彼には絶対にできないと誰もがわかっていたのに、栗城さんだけは「ひょっとしたらできるんじゃないか」と思っていたために起きた。

 バッドエンディングとなった栗城さんの物語から僕らが学べるのは、「失敗は失敗としてそのまま受け入れるべき」ということだ。失敗の原因を探り、自分に足りないものを補い、計画を練り直し、成功へ一歩ずつ近づくというプロセスがなければ、「普通の兄ちゃん」が一人でエベレストには登れない。

 誰しも失敗はイヤなものだから、失敗の根本的な原因を探ったり、それを克服するために人知れず努力したりするのは避けたい。でもそれをやらなくちゃ前には進めない。栗城さんは著書では自己啓発もどきの口当たりの良い「失敗論」を語っていたが、彼自身が失敗と正面から向き合うことはなかった。

 栗城さんが自身の承認欲求を、自分を高めるためのエネルギーに替えて、継続的に努力していれば、失敗を成功に導けたのかもしれない。しかし彼の「弱さ」がそれを阻んだ。弱い自分を売りにしていた栗城さんは、最後まで「弱さ」を手放すことができなかったのだ。

 僕は栗城さんのことを「愚かな嘘つき」だと思う一方で、「誰もが持つ弱さを抱えた愛すべき男」だとも思う。きっと実際に会ったらラブリーで魅力的な人物なのだろう。でもラブリーで魅力的な人物だからといって大冒険を成し遂げられるわけではない。むしろ逆の例の方が多いというのがこの世界の現実だ。

 

 ・・・というような文章を2年前に書きたかったんだけど、当時の僕には書けなかった。なので今デリーで、とりとめもなく栗城さんのことを思い出しながら書いている。35年という短い生涯をヒマラヤで閉じられた栗城さんのご冥福をお祈りします。

 

 

反面教師としての栗城劇場

 僕が今ごろになって栗城さんのことを書いたのは、彼がついた多くの嘘が、山の事故で亡くなったことでうやむやになっていく気配を感じたから。彼の事故は「英雄的な登山家の死」などではなく、「自らの嘘の物語によって追い詰められた男の必然的な結末」だったと感じています。

 僕は昔から「平気で嘘をつく人」とか「魅力的な詐欺師」が気になって仕方がない性分なんです。だから栗城さんのことは以前からウォッチしていた。詐欺師って極めて人間的な存在じゃないですか。そしてジェットコースターみたいな劇的な人生を送ることになる。憧れる、とまでは言わないけど、なんか気になる存在だったんです。

 栗城さんは決して計算高い人、ずる賢い人ではなかったと思います。ただ脳天気に「少しぐらい嘘ついたってバレないや」と思い込んでいた。そしてその嘘がどんどん拡大していった。ある意味ではとてもルーズな人なんですよね。最後の数年は、話の辻褄を合わせる努力すら放棄していた。そういうダメっぷりがとても人間くさいなぁと思っていました。

 もちろん僕自身の仕事が栗城さんがやっていたことに近いということもあります。フィールドは違うけど、旅をして、それを多くの人に伝えることで、何がしかの対価を得ている人間として。誰も見ていないからこそ、「バレなきゃいいか」と安易な嘘を重ねてはいけない。それが彼の人生から学ぶべきことです。

 

 最後に「詐欺師」という表現について。「栗城さんがうさんくさいのはわかるけど、詐欺師というのは言いすぎでは」という反応があったので。
 確かに栗城さんは刑事・民事ともに告訴されたり裁判沙汰に発展したことはありません。しかし「継続的に嘘を重ね、その嘘の物語を語ることで、多くの人から金銭などのサポートを受けていた」という点で、紛れもない詐欺師だと思います。彼が嘘に自覚的ではなかった、周囲に担ぎ上げられたのだという意見もあるけど、自分がどこまで登ったのか、本当に一人で登ったのか、といった事実はもちろん彼自身がよくわかっていたことなので、最初から人を騙す意図があったのは間違いありません。
 「たとえ嘘が混じっていたとしても、栗城さんの語る言葉に救われた人がいるのだからいいじゃないか」という意見は明確に否定しておかなければいけません。エベレスト登山という厳密な記録が求められる世界で「俺ルール」をやってはいけない。それは非難されるべき卑劣な行為です。
 彼が宗教家、教祖だったら、何を言っても別に構わないんですけどね。