「インドの小学生は二桁のかけ算を暗記している」という話が日本のメディアで取り上げられることがあるけど、僕は一度も見たことがない。まるっきり嘘ではないのだろう。そういう教育法を取り入れている学校が一部にあるのは事実だろうが、それを「インドという国」に丸ごと当てはめるのは無理がある。

 僕の実感では、インド庶民の計算能力は良くも悪くもなく「普通」だ。雑貨屋の主人は「100-75」のような計算をいちいち電卓で打たないとお釣りをくれないし、かけ算どころか単純な足し算引き算でも間違える人が多い。記憶力がすごい人にはたまに会うが、計算力で度肝を抜かれた経験はない。

 もちろんごく一部に数学的能力の優れた学生がいて(人口の1%だとしても1300万人にもなる!)、そのまたごく一部の天才的な能力を持った人がグーグルなどのグローバル企業のCEOになっていたりするのは事実だけど、それをもって「インドの教育システムが優秀だ」という証明にはならないだろう。

 

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 僕がよく訪れるインドの田舎の公立小学校は、5クラスの生徒を二人の先生が教えていて、そのうち一人がサボり休暇中で、残った一人はゆっくりお茶を飲んでいる、というような緩さだったりする。英語の授業といっても1年生がABCを暗唱し、5年生もやっぱりABCを暗唱しているようなレベルだ。

 家がお金持ちで優秀な生徒は、そういう生徒だけをかき集めた寄宿舎学校に入って猛烈に勉強する。その中の本当に優秀な人たちがグローバル企業のプログラマーとして活躍しているわけだ。インドの教育はボトムアップ式ではなくて、明かなエリート選抜主義で、その部分は日本とはまったく違う。

 もし本当にインドの教育法が子供たち全員の可能性を伸ばすものであるなら、現在のインドがこのような経済的地位に甘んじているわけがない。何しろインドという国は広大で、多様で、貧富の差が激しいから、ある一部分を切り取って「インドという国では」と語り始めるとおかしいことになってしまう。

 僕が実際に訪れたインドの学校の多くが、権威主義的で、反復と暗唱に重きを置く教育法を採っていた。「生徒一人一人の個性を伸ばす」という発想はまったくなく、とにかく教科書を丸暗記すること、文字を正しく書けることを重視していた。これはインドだけではなく、アジアの学校にある程度共通している特徴だ。

 

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 メディアが「インド式の暗算法は」とか「スウェーデン式の教育法は」という語り方をするとき、たいていの場合「だから日本の教育法はダメで、変革が必要だ」という結論になる。日本の教育システムを変えたいがために、自分たち理想とする教育のあり方を他国の一例に投影しているのだ。

 「どこかに理想の教育法があるはずで、我が国はそこから遅れているのだ」という考え方は、明治維新以降の日本の教育界に脈々と受け継がれていて、だから常に「○○の教育法に比べて日本では」という語り口になったのだと思うが、もうそろそろ「理想の教育法なんてどこにも存在しない」という事実を受け入れるべきではないだろうか。

 どの生徒にも応用可能な理想の教育法は存在しない。例えばすべての生徒に「二桁のかけ算を暗記しなさい」と命じたとしても、数学的センスがあったり暗記が得意だったりする子は喜んでやるかもしれないが、そういうものが不得意な子には無意味で理不尽な苦痛になりかねない。全員に同じことをやらせるのではなく、子供一人一人の違い・個性に合わせて教え方を柔軟に変えていくべきなのだ。

 

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 僕には小学生の娘がいるので、今の日本の小学校の様子を見る機会があるのだが、そこで強く感じるのは「僕が小学生だった頃(35年前)と比べると、雰囲気がずいぶん変わった」ということだ。画一的、杓子定規的な部分が減って、生徒の個性を認める方向に大きく舵を切っている。これは少なからず驚きだった。

 「読み書きソロバンができて、長時間の苦役にも耐えられる<規格品>を作る」という明治政府の富国強兵政策から脈々と続いていた日本の教育方針は、平成以降、生徒一人一人の個性の違いに向き合う方向に確実に進んでいる。少子化で子供の数が減って、先生の目が行き届きやすくなったこともあるだろう。

 発達障害やADHDへの理解が深まったのも、「子供の学習能力や得意分野には明かな個人差がある」という事実が受け入れられてきたからだ。言語能力も計算能力も対人コミュニケーション能力も、遺伝的な要因によって生まれたときから大きな差があることが知られるようになったのだ。

 「どんな子でもやればできる」という理想論は現実を反映していない。それは日本の教育関係者だって百も承知なのだと思う。それでも「誰でもやればできる」という建前を撤回するには至っていない。それは戦後民主主義的価値観の根幹に関わる部分だからだ。

 

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 誰でもやればできるわけではないし、特別な能力を持っていなくても、ただ生きていればいい。インドを旅していると、いつもそんな風に思う。インドには社会からドロップアウトした人、物乞いやサドゥーや芸人がいたるところにいて、それでも案外楽しそうに生きているのだ。

 民族、宗教、カーストの違いを前提に生きているインド人は「人ってそもそも違うのが当たり前」と考えている。境遇も生き方も能力もそれぞれ違うのだから、できない自分を過度に卑下したり、嫉妬に苦しんだりすることは少ない。

 インドに比べると日本社会は均質的で、同調圧力が高い。「大学に行くのが当たり前」となったらみんなが大学を目指し、「孤独になったら生きていけない」という社会的圧力が対人コミュニケーション能力を過度に要求する。それが「普通にできる人」にはいい社会かもしれないが、「普通にはできない人」には息苦しい社会だ。

 みんなが大学に行く必要はないし、みんなと仲良くなる必要もない。それぞれが得意分野を伸ばして、そのことで社会に貢献できるような人になればいいと僕は思う。
 いや、社会に貢献できなくたっていい。ただ生きていれば、それでいい。少なくとも僕の娘には、そうあってほしいと願っている。