1700 乾期のただ中にあるカンボジアの道路は、からからに乾いていた。舗装もされていない国道6号線を大型トラックが走り抜けると、土煙がもうもうと上がり、僕の髪の毛やTシャツはたちまち埃だらけになった。トラックが通り過ぎると、今度は10頭ほどの牛が道路を横断する。牛追いの少女が、遅れ気味の子牛の尻を長い竹の棒でひっぱたくと、子牛は目の前の草を諦めて、とぼとぼと歩き出す。それを見届けてから、僕は自転車のペダルを踏み込んだ。

 三日間のアンコールワット見物を終えた次の日は、シェムリアップの町でのんびり過ごそうと決めていたのだけど、それがこれといった目的地もないままに国道6号線をひた走ることになったのは、貸し自転車屋を見つけたからだった。ベトナム以来の習性で、僕はひとたび自転車にまたがると、できる限り遠くまで漕ぎ出したくなる衝動に駆られるのだ。そしてふと気が付くと、僕は草原の間を一直線に延びる乾いた国道を、東へ東へと走っていた。

 30分ほど行くと、小さな売店が見えたので、ひと休みすることにした。500リエル(13円)の水と200リエル(5円)の揚げパンを買い、遅い朝食代わりに食べていると、バイクに乗った中年の男が話しかけてきた。「ユー ジャパニーズ?」「イエス」
 僕が頷くと、男は突然「らりるれろ」と言った。

1649

「安武畳製造販売」と書かれたバイク

 いきなり「ら行」である。僕が呆気にとられていると、彼はにっこりと笑って鞄からノートを取り出し、「ここに書いてくれ」と僕に手渡した。
 よくわからないまま、彼のノートに「らりるれろ」と平仮名で書くと、彼は満足げに頷いてから、今度は「カタカナ」と言った。
 男に言われるまま、僕は平仮名と片仮名の50音表を書いた。たぶん、彼は日本語を習った経験があるのだろう。でも、いつどこで習ったのかは、わからずじまいだった。彼が知っているのは、「こんにちは」「さようなら」という挨拶だけで、日本語を話すことは全く出来なかったからだ。それなのに、平仮名と片仮名の読み書きだけは、かなり正確に覚えていた。

 「ラ行のおじさん」はノートを大事そうに鞄に仕舞うと、「さようなら」と言ってバイクにまたがった。僕も「さようなら」と言った。彼の古いスーパーカブのボディーには、白ペンキで「安武畳製造販売」と書かれていた。「安武畳製造販売」の人も、自分のバイクが回り回って、カンボジアの田舎に住む「ら行のおじさん」のものになっているとは、夢にも思っていないだろう。

 
 

ビールのスプライト割りを飲む

1668 適当なところで国道を南に折れ、あぜ道をしばらく走り続けると、静かな農村に似つかわしくない賑やかなメロディーが聞こえてきた。農家の庭にテントが張られていて、大がかりな宴会が催されていた。庭の入り口には、着飾った6人の男女が並んで訪問客を迎えている。男性はスカイブルーのスーツを着てかしこまり、女性は金や銀の飾りをあしらったピンクのドレスを着て微笑んでいる。

 僕が女性のきらびやかな衣装に見とれていると、テントから一人の女の子が出てきた。両手を胸の前で合わせる、いかにも南方仏教国らしい挨拶に、僕も慌てて手を合わせた。彼女はカタコトの英語を話せたので、少し安心した。「これは何のパーティーですか?」「ウェディング・パーティーです。あの真ん中に並んだ二人が、今日結婚したんです」
 彼女が指差した男性は、胸に赤いバラを差して、照れ臭そうな笑みを浮かべていた。若い男女である。まだ二十歳そこそこだろう。
「あなたも一緒にいかがですか?」と女の子は言った。
「え? このパーティーに?」
 僕は驚いて言った。いくら厚かましい僕でも、通りすがりの披露宴に飛び入り参加するというのは、さすがにはばかられた。
「大丈夫、ノープロブレムです。あなたも一緒に祝ってください」
 彼女はそう言うと、僕の手をぐいと引っ張った。なかなか強引な女の子だ。こうして僕は、見ず知らずのカンボジア人の結婚披露宴に、招かれざる客人として参加することになった。

 テントの下には、既に50人ほどの出席者が6つある丸テーブルを囲んで座っていた。僕は一番年若い男女のテーブルに入れられて、さっそく「ビールのスプライト割り」という奇妙な飲み物を振舞われた。カンボジア人はあまり酒に強くないのか、こういう飲み方がわりに一般的らしく、どのテーブルにもビール瓶とスプライトの1.5Lペットボトルが並べて置いてあった。
 左の女の子が僕のグラスにビールを注ぎ、右の男の子がそれにスプライトを加えていく。出来ることなら別々に飲みたいところだったが、ここはカンボジアの作法に倣うべきなのだろうと我慢した。しかし味の方は、ビールの苦みとスプライトの甘みが混じり合って、とても飲めたものではなかった。

 言葉も通じない外国人が突然加わったというのに、宴会の席は滞りなく進行していた。カンボジア人というのはあまり細かいことにはこだわらないのだろう。遠方からやってきた新郎の旧友のように、僕はごく普通に席に着き、ごく普通に酒を飲み、料理を食べた。

 カンボジアの結婚披露宴は、日本のように形式張らない――言い換えれば、ずいぶんいいかげんな――ものだった。結婚披露宴の真の目的が「飲んで食って騒ぐこと」にあるとは言っても、日本人なら然るべき形式というものに少しはこだわる。親戚の長い挨拶があり、キャンドルサービスが行われ、誰かが「乾杯」系ソングをカラオケで歌い、最後には両親への花束の贈呈がある。でも、カンボジアの披露宴にはそのような「予定の流れ」というものが全くなかった。

1710 僕らが飲んだり食ったりしている間、誰一人挨拶に立つものはいなかったし、場を取り仕切る司会者らしき人物も見当たらなかった。一応「お色直し」はあって、新婦は一度退場し、ピンクのドレスから青いレースのドレスに着替えてくるのだけど、新婦の再登場に関心を払う人はほとんどいなかった。拍手すら起こらない。みんな飲んだり食べたりするのに忙しいのだ。
 だいたい、直径50cmはある巨大スピーカーから、カンボジア歌謡曲が大音量で流され続けている状態では、誰かが何かを言ったところで聞こえるはずがない。野外ライブ会場にいるみたいな雰囲気なのだ。

「ねえ、これじゃ誰とも話が出来ないじゃないか?」
 僕は披露宴に引っ張ってくれた女の子モムに聞いた。同じ言葉を大声で何度か繰り返すと、ようやく彼女は頷いた。
「いいんです」とモムも大声で言った。「みんな同じ村の人だから」「結婚する二人も、同じ村なの?」
「そう。ここは250人が住む小さな村なんです」
 つまり、出席者はみんな顔見知りだから、あえて形式張った披露宴をする必要もないし、話をすることもないというわけだ。披露宴という場は、村人が出来る限りのお洒落をして(実際スーツなんて全然似合っていなかった)、ご馳走を食べ、飲んで騒ぐためにあるのだ。

 ビールのスプライト割りには閉口したが、料理はなかなか豪勢なものだった。最初に野菜入りビーフンが出され、牛肉の炒め物、骨付きチキン、豚と野菜炒め物と、次から次に皿が運ばれてきた。そして最後には鍋料理とご飯が出てきた。どれも手の込んだ料理というわけではないけれど、普段はあまり食べない肉類を、この日だけは目一杯食べようという晴れがましさが伝わってくるものだった。
 ところで、カンボジアにはやたらと野良犬が多い。死んだように眠っているのか、眠ったように死んでいるのか、見分けのつかないような汚れた犬が、そこらじゅうにばたばたと倒れている。豊かとは言えないこの土地のどこに、これだけ多くの野良犬を養う余裕があるんだろうと不思議に思っていたのだけど、この宴会でその謎が解けた。

 骨付きの肉がテーブルに運ばれてくると、どこからともなく犬達がテントに集まってくる。食べ終わった骨を狙っているのだ。みんなはそれを承知で、骨を足元にぽいと投げ捨てる。野良犬は我先にと集まってきて、ゴリゴリと噛み砕いてきれいに食べてしまうのだ。あとには何も残らない。彼らは非常に優秀な残飯処理係なのだ。

 宴会も佳境にさしかかると、犬ばかりでなく豚までもが、その残飯争いに参加する。家畜や野良犬にとっても、今日はハレの日なのだろう。

 

1692 開始から2時間。並べられた料理が、文字通り跡形もなく食べ尽くされてしまうと、テーブルが片づけられ、テントの真ん中に人の輪ができた。そして、スピーカーから流れる音楽がアップテンポのダンスミュージックに変わり、酔った男達が好き勝手に踊り始めた。飲んで食った後は、当然踊るってわけだ。

 真っ黒に日焼けした陽気そうなおじさんが、一緒に踊ろうと僕の手を引っ張った。彼の知っている英語は「アイムソーリー」「ノープロブレム」「オーケー」の3つなのだけど、踊り出せばそんなことは全然問題ではなくなる。出来れば酒臭いおっさんじゃなくて若い女の子と踊りたい、という本音は、この際胸に仕舞っておこう。

 僕とおじさんが向かい合って、ツイストみたいな妙なステップで踊り始めると、周りで見ている女達が手を叩いて笑い出した。断っておくけど、僕はリズム感が悪い方ではない(と自分では思っている)。それでも、僕が踊っている間中、笑いと拍手が鳴り止むことはなかった。

 ダンスは1時間ほど続いたが、その間僕はほとんど踊りっぱなしだった。ビール&スプライトを飲み過ぎたせいで、顔からは大粒の汗がしたたり落ちた。踊り疲れて、輪から離れて座っていても、すぐに「ノープロブレム」のおじさんに見つかって、輪の中に引き戻されてしまうのだ。ちなみに、このおじさんの名前はロンリーさんというのだが、本当に寂しがり屋なのかもしれない。

 僕もロンリーさんもくたくたになった頃、ようやく音楽が鳴り止んで、披露宴も解散ということになった。最後にご祝儀袋が配られ、参加者はお金を入れて新郎新婦に手渡すことになっていた。いくら入れていいのか見当も付かないので、モムに聞いてみると、だいたい5千から1万リエル(130円から260円)だと言う。現金収入の少ない農民にとっては、これでもかなりの金額である。僕は2万リエルを袋に入れて、モムに教えてもらったお祝いの言葉と共に新郎新婦に手渡した。

 
 

ロンリーさんはロンリーじゃない

1695 宴会が終わった後、ロンリーさんは僕を自分の家に招いてくれた。どういうわけか、僕はこの人に気に入られてしまったようだ。通訳としてモムも付いてきてくれた。
「何もなくて、悪いね」
 そう言いながら、ロンリーさんは器用に手斧を使って、ココナッツの実に穴を開けて渡してくれた。酔っている体に、ココナッツジュースの程良い甘さが染み込んでいくのがわかる。彼の二人の息子は水浴びの最中で、父親に「こっちに来なさい」と言われると、照れ臭そうに近寄ってきて、胸の前で手の平を合わせた。
 僕は木の階段を上って、家の中を見せてもらった。
「見せるようなものは、何もないんだ」
 ロンリーさんは少し悲しそうに言った。確かに部屋の中はがらんとしていて、家財道具はほとんど何もなかった。蚊帳と枕といくつかの炊事道具が置いてあるだけだ。「でもロンリーさんは、ロンリーじゃないですね」
 モムに訳してもらうと、彼は口を大きく開けて笑った。
「その通りだ。私には畑がある。妻がいる。子供が二人いる。それで十分なんだ」

 宿に戻って、体中に着いた埃を水シャワーで洗い落としながら、僕はロンリーさんの言葉を思い出した。
 僕には畑もなく、仕事もなく、家族もいない。これで十分だ、なんて思えないからこそ、僕は旅に出たんだろうか。寂しいと感じているから、歩き続けるのだろうか。

 まだ僅かに残っていたアルコール分を冷たいシャワーで吹き飛ばし、しばらく答えの出そうにない疑問を、頭の中で何度か繰り返した。答えを見つけるために僕ができることは、おそらく旅を続けることだけなのだろう。今は歩き続けるしかない。

 シャワー室の鏡を覗くと、そこには驚くほど日焼けした自分の顔があった。少しは旅人の顔になってきたみたいだ。鏡を見ながら、そんな風に思った。