イラン国境を目指して
クエッタに一泊した次の夜に、僕はイランの国境を目指して砂漠をひた走るバスの中にいた。
クエッタの町では特筆するべきことがあまりなかった。ホテルの近くにある洗濯屋に洗濯物を出して、次の日に取りに行ったら、濃いブルーのシャツが見事に色落ちしてまだらのスカイブルーになっていたので、どうしてくれるんだと迫ると、最初は取り合おうとしなかった洗濯屋のオヤジも渋々折れて、色落ちしたシャツの洗濯代をタダにしてくれたが、だからといって落ちたシャツの色は元には戻らない――そんな面白くもない出来事があったぐらいだった。
クエッタから国境の町タフタンを結ぶ幹線道路にも、多くの検問所があった。トライバル・エリアのときと同じように、警官が乗り込んできて、車内に不審なもの(つまりは武器や麻薬)がないかチェックしていく。検問所はイランへ向かう大型トラックで混み合っていて、僕らは30分以上も足止めされることになった。
その間、僕は他の乗客と一緒に道路に降りて、星空を眺めながら出発を待った。広大な砂漠の真ん中で星だけは美しかったし、また星以外に眺めるようなものは何もなかった。乗客は道路脇にしゃがみ込んで煙草に火をつけたり、ハシシ(大麻樹脂)を吸ったりしている。警官がいる中でそんなものを吸っていいのかとも思うのだが、パキスタンでは酒は禁止されている代わりに、ハシシはOKなのだという。
「君もどうだ?」と乗客の一人に煙草を勧められ、いつものように「吸わないんだ」と断る。それをきっかけにして話をするようになったのが、ナビという男だった。
「日本人の君に、ひとつ質問があるんだが」とナビさんは言った。「ヒロシマとナガサキについて、君たちはどう思っているんだ? アトミックボムを落とされて、大変な被害が出たんだろう?」
僕はこれと同じような質問を、何人ものパキスタン人から受けた。他の国ではあまり知られていない「ヒロシマ」「ナガサキ」という固有名詞を、かなりの割合のパキスタン人が知っているのは驚きだった。そして彼らはそのことを通じて、日本人に親近感や仲間意識のようなものを抱いていた。
どうして「ヒロシマ」「ナガサキ」が、日本人への仲間意識に繋がるのか。何人かのパキスタン人と話をするうちに、それが彼らのアメリカという国への敵愾心と関係があるということがわかってきた。
今やアメリカはイスラエルと並んでイスラム諸国共通の敵と見なされている。少なくとも民衆レベルでの反米感情は、想像以上に強い。その彼らにとって「ヒロシマ」「ナガサキ」は、アメリカ軍が行った非道行為のシンボル的存在なのだ。その結果、彼らは被爆国である日本に対して、「アメリカに虐げられた同じ仲間」という意識を持つようになったのである。
「ヒロシマとナガサキはとても悲しい出来事でした。多くの人が殺されました。だけど、僕はそのことでアメリカ人を憎んではいません。それは過去の戦争で起きた、たくさんの過ちの中のひとつなんです」
僕はゆっくりと言葉を選びながら答えた。僕の答えはたいていのパキスタン人を納得させることはできなかった。彼らは被害者の口から「アメリカはひどい国で、やっつけるべきだ」という言葉が出てくるのを期待していたからだ。
しかし、ナビさんの反応は違っていた。彼は僕の言葉を噛んで飲み込むように頷きながら、「君の考えはわかったよ」と言った。
「ところで、今のヒロシマとナガサキの町はどうなっているんだ?」と彼は訊ねた。
「今のヒロシマとナガサキは、どちらも美しい街ですよ」
「美しい?」ナビさんは驚いて聞き返した。「何百年も人が住めない土地だと聞いたんだが」
「50年以上経った今でも、原子爆弾による病気で苦しんでいる人はいます。でも、街はすぐに復興しました。原子爆弾の傷跡はすっかり消えているんです」
「美しい・・・そうなのか」
そう言ったきり、ナビさんはしばらく黙り込んでしまった。予想もしない答えに驚いているようだった。おそらく彼は原子爆弾とチェルノブイリ原発事故の被害を混同していたのだろう。しかし、そういう勘違いをしているのは、彼だけではなかった。多くのパキスタン人が、原爆の恐ろしさについてはよく知っているものの、「それ以後」のヒロシマ・ナガサキについては全く知らなかった。
戦争や災害の恐ろしさは毎日のように伝えられるけれど、その後の復興や取り戻した平和がニュースになることは極めて少ない。僕だってベトナム戦争以後のベトナムのことはほとんど知らなかったし、ポルポト以後のカンボジアのことも全く知らなかったのだ。
「でも、たった一発の爆弾が10万もの人を殺したという事実は変わりません。僕ら日本人はあんなことを二度と起こしてはならないと思っています。世界のどの街にも、起きてはならない悪夢なんです」
「悪夢か。私もその通りだと思う」
ナビさんは頷いた。そして、砂漠の彼方に広がる山並みを指さした。明るい月の光が、山の稜線をくっきりと浮かび上がらせていた。
核実験は間違っている
「あの山の向こうで、パキスタンで初めての核実験が行われたんだ。3年前のことだ。私はその様子をテレビニュースで見た。大きな爆発が起きて、地面が割れた。周りには、実験の成功を喜んで大騒ぎしている連中もたくさんいた。だけど私は間違ったことだと思った。我々はヒロシマとナガサキの恐ろしさをよく知っているからだ。原子爆弾を作るということは、ダイナマイトに火をつけて、自分の右手に持っているようなものだ。自殺行為だよ」
3年前1998年に行われた核実験のニュースは、日本でも大きく報道された。まずインドが核実験を行い、それに呼応する形でパキスタンも核実験を行った。それによってカシミール地方の領有権問題を抱える両国の緊張が、一気に高まった。つまり、今のパキスタンは核による攻撃を受ける可能性が最も高い国であり、だからこそ「ヒロシマ」「ナガサキ」の悲劇に対してシリアスにならざるを得ないのだ。彼らにとって「ヒロシマ」「ナガサキ」は過去の出来事ではなく、今そこにある危機なのだ。
「インドとパキスタンが争っても、お互いに何の利益もないんだ」とナビさんは続けた。「パキスタンの国家予算の3割から4割は軍事費なんだ。これはあまりにもひどい話だよ。その上、核兵器まで持って、いったい何をしようとしているんだ?」
パキスタンの旅の中で僕が出会った男たちは、友情に厚く、信仰心に厚く、しかしすぐに頭に血が上るようなタイプの人が多かった。ひとことで言えば彼らは「男臭い」人々で、何かを冷静に考えるということが苦手な人々のようにも見えた。だからこそ、自分の国が核兵器を持った日に国旗を掲げて「パキスタン万歳!」と叫びながら町を行進する、というような時代錯誤的な光景が見られるのだ。
でも、もちろんパキスタンにもいろいろな考えを持つ人がいる。自分の国の行く末に危機感を抱きながら、ある種の無力感にとらわれているナビさんのような人もいるのだ。
「インドは大きな国だ。パキスタンの何倍もの人口と、何倍もの経済力がある。そのインドにとって、カシミールという小さな土地のことは、本当は重要ではないんだ。だけど彼らはカシミールを手放そうとしない。これは宗教の問題でもないし、民族の問題でもない。国のプライドの問題だよ。インドはパキスタンに歩み寄ることができないんだ。パキスタンも譲ることができないんだ。そうやって50年間争い続けてきたんだ。この問題は、おそらく私が生きている間は解決しないよ」
彼はそこまで話すと、ふーっと大きく息をついた。どうにかしたいがどうにもならない、という諦めにも似た感情が、深いため息の中に表れていた。
やっとのことで出発を告げるクラクションを鳴り、乗客はぞろぞろとバスに戻り始めた。
「あの山の向こうだよ」
ナビさんはもう一度確かめるように、砂漠の向こうを指さした。夜の砂漠は時間が止まったような静けさに包まれていた。その向こうで核実験が行われたという山並みが、月光に照らし出されて真っ黒いシルエットとなって連なっている。それは、不吉な出来事を暗示する影絵のようにも見えた。