ペシャワールでは、アフリディという若者の家にお邪魔した。バスターミナルでクエッタ行きのバスの出発時間を調べに行ったとき、英語が通じずに困っていた僕を助けてくれたのが彼だった。
アフリディ君は雑貨屋を営む父親を手伝う傍らで、私設の学習塾で英語を教えているということで、とても流暢な英語を話した。
彼の実家は閑静な住宅街の一角にあった。鉄製の大きな門のある立派な邸宅だった。
玄関で靴を脱いで、10畳ほどの居間に通された僕は、そこでしばらく待つように言われた。居間には毛足の長いワイン色の絨毯が敷かれていた。幾何学模様が織り込まれた高そうな絨毯である。家具や調度品の趣味もいいし、大きな本棚には百科事典のようなものが何冊か並んでいる。商売をやっているだけあって、きっとこの家はお金持ちなのだろうと僕は思った。
「母と姉はあなたを歓迎すると言っています」と居間に戻ってきたアフリディ君が言った。「でもイスラムの習慣では、結婚した女性は家族以外の男に顔を見せるわけにはいかないんです。だから彼女達はあなたに食事を運ぶことができません。代わりに僕が運んできますから」
そういうわけで、僕らは広い居間に二人きりで自家製ナンに青野菜のカレーという昼食を食べた。
「とても美味しいよ」と僕が言うと、アフリディ君が「美味しいって言っているよ」と女達に伝えに行く。そして、「どうぞ遠慮なく食べてくださいね」という言葉を持って帰ってくるのである。まるで伝言ゲームをしているみたいな、回りくどいコミュニケーションだった。
「これもイスラムの習慣ですから」とアフリディ君は苦笑いして言った。
でも、家にいる女性全員が顔を見せなかったわけではなく、例外もいた。一人はアフリディ君の姪にあたる6歳の女の子だった。彼女はピンクのフリルのついた花柄のワンピース姿で現れて、人懐っこい笑顔で「ハロー」と挨拶してくれた。絵本の中のお姫様みたいな格好だった。「女」と認知される年齢になれば、その美しさを見せびらかしてはいけないというのがイスラムの習慣なのだが、子供のうちはできるだけかわいい格好をさせようという親心なのだろう。
もう一人の例外が、95歳になるというアフリディ君のおばあさんだった。そのぐらいの年になってしまえば、見知らぬ男に顔を見せてはならないという習慣を超越してもいいらしい。
「彼女はまだまだ元気ですよ」とアフリディ君は言った。「一人では歩けませんが、口は元気ですね。いつでも話をしています。たぶん100歳まで生きるんじゃないでしょうか」
彼の言う通り、おばあさんはとても元気だった。孫を通訳にして、「どこからきたんだ?」「年はいくつだ?」「仕事はなにをしている?」と矢継ぎ早に僕に質問した。そして質疑応答が一段落すると、自分が若かった頃(と言えばものすごく昔の事だ)の思い出話を語ってくれた。
戦争が続いて食べるものにも困っていた時代、私はアフガニスタンとの国境近くの山奥の村まで歩いて行ったんだよ。何十キロもの道のりを、重い荷物を背負ってさ。家族のために食べ物を運んできたんだよ・・・。
「おばあさんはいつもこの話ばかりするんです」とアフリディ君は言った。「まるで昨日のことみたいに」
「そう言えば、僕のおばあさんも会うたびに昔話をしてくるよ」
「どこでも同じなんですね」と彼は笑った。
アフリディ君が「面白い場所だから、行ってみたらどうですか?」と勧めてくれたのがダラの町だった。
「ダラはパキスタン政府の法律が通用しない町なんです。だからダラには銃を売る店がたくさんあります。銃を売るのも買うのも自由なんです。どうです、面白そうでしょう?」
「でも危なくないのかな?」
「大丈夫、危険はありません。ただ銃を売るだけの場所です。撃たれることなんて絶対にありませんよ。外国人もしょっちゅう行っていますから」
アフリディ君は僕を安心させるように微笑んだ。
パキスタン政府の力が及ばない土地
ペシャワールからバスに揺られること40分。ダラの町はアフガニスタンとの国境にほど近い「トライバルエリア」と呼ばれる部族地域にあった。アフリディ君が言ったように、ここはパキスタン政府の力が及ばない土地なので、警官や兵士の姿は一人もなかった。
ダラのメインストリートには、百軒を超える数の銃砲店が並んでいた。どの店も間口が狭く、一見すると煙草屋みたいだが、店内にはライフルやマシンガンなどの銃器が所狭しと並べられている。確かに「銃の町」という以外、形容しようのない町である。僕は旅の中で様々な町や村を訪れたけれど、こんなにユニークな町を見たのは初めてだった。
ダラに入ってまず驚いたのが、町のあちこちから聞こえてくる銃声だった。「ドン!」という比較的軽い拳銃の音が一番多かったが、時折「ズドーン」というショットガンの重い音や、「ダダダダ」というマシンガンの連続音が混じることもあった。お客が購入する銃を試し撃ちしているのだという。
いくらアフリディ君が「安全です」と太鼓判を押してくれたとは言っても、腹にまで響くショットガンの発射音には、さすがに足がすくんだ。どこかから流れ弾が飛んでくるんじゃないかと、気が気ではなかった。
しかし、銃声を別にすれば、町の雰囲気は拍子抜けするほどのんびりとしたものだった。売り物が銃であることを除けば、雰囲気はペシャワールのバザールとさほど変わりがないように見えた。
僕が町を歩いていると、店番の男達が「How are you?」と気安く声を掛けてきて、「Fine!」と答えると、彼らも人懐っこい笑顔を返してくる。それはごく普通のパキスタン商人の反応だった。彼らはお茶を飲んだり世間話をしたりしながら、銃を買いに来るお客を気長に待っているのだった。
「これはロシア製カラシニコフ。世界で一番使われている銃さ。15000ルピー(3万円)だ」
そう説明してくれたのは、勝手にガイド役を買って出てたベレー帽の男だった。
「こっちがカラシニコフをこの町でコピーして作った銃だ。こいつは3000ルピー(6000円)。安いだろう?」
男は店内にある武器の値段を、片っ端から説明していった。三方の壁は天井から地面まで、何十丁もの銃で埋め尽くされている。
「この中国製の小型拳銃は15000ルピー。コピー品だと3000ルピー。アメリカ製のライフルは12000ルピー。こっちはドイツ製のショットガン。これはイタリア製のマシンガン・・・」
狭い店内は、さながら世界の中古銃の見本市会場のようだった。
「中国製は安くて性能がいいからお勧めだね。アメリカ製は値段の割にたいしたことはない。インド製、こいつは論外だね」
銃の多くは、隣国のアフガニスタンから密輸されてきたものだという。激しい内戦の続くアフガニスタンには、世界中から武器や弾薬が流れ込んでいるのだ。ちなみに、僕が案内された銃砲店の店主もアフガニスタン人だった。
「彼は軍事政権タリバンのメンバーなんだ」とガイド役の男が自慢げに紹介した。「あんたも知っているだろう? この間バーミヤンの仏像が爆破されたのを。あれがタリバンだ」
タリバンの手によってアフガニスタンのバーミヤンにある石仏が爆破されたというニュースを、僕はインドで知った。過激なイスラム原理主義者が、ただ異教の像であるという理由だけで貴重な遺跡を破壊した。その衝撃的な映像を、CNNは繰り返し流していた。彼らのファナティックな行動は、僕にはまったく理解できなかった。唯一理解できたのは、タリバンという組織が相当に追いつめられているということだけだった。
しかし、目の前に座っているタリバンの男は、ごく普通の商人に見えた。物腰はとても丁寧だったし、外国人である僕に対してもお茶を振る舞ってくれた。写真を撮っても構わないかと訊ねると、ライフルを手にしてポーズまでつけてくれた。
それでも、ファインダー越しに見える彼の眼光は、威圧的で鋭いものだった。長く武器商人として生きてきた男の無言の迫力が、その瞳の奥にはっきりと感じられた。
「私には4人の妻がいる」
とタリバンの店主は言った。
「4人の妻?」
僕は驚いて聞き返した。
「そうだ。4人の妻だ。そして24人の子供がいる」
男は当たり前のように言った。そして僕に尋ねた。
「あんたには何人の妻がいるんだ?」
「僕には子供はいません。結婚もしていません。まだ26歳なんです」
僕がそう言うと、彼は愉快そうに笑った。
「私が26の頃には、もう3人の妻がいたよ」
そう言われると、僕には返す言葉がなかった。イスラムの習慣では4人まで妻を持てる、ということは広く知られているけれど、実際にはパキスタン人のほとんどは一夫一婦制のもとで暮らしている。元々が戦乱の時代に未亡人となった女性を保護するために生まれた制度だと言われているから、現代の事情とは合わなくなっているのだろう。
それに、イスラムの聖典・コーランは「4人の妻を時間的にも経済的にも平等に扱え」と説いている。つまり、大家族を養う夫には、それだけの甲斐性と公平さが要求されるのだ。恋人一人でさえ持て余しているような僕には、とても真似のできることではない。
「この商売は儲かるんですね?」
そう質問すると、店主は何も言わずに、ただにやりと笑ってみせた。
射撃の的はレンガ
ベレー帽を被った自称ガイドの男は、次に射撃場に案内してくれた。射撃場といっても特別な設備があるわけではなく、ただの崖に向かって銃をぶっ放すだけの場所である。銃を買いに来たお客は、ここで試し撃ちをしてから、どれを買うか決めるのだという。
「拳銃だと10発350ルピー(700円)。マシンガンだと30発700ルピー(1400円)だ」
と男は言った。外国人である僕が銃を買うわけにはいかないが、金を払えば試し撃ちをすることはできるのだそうだ。実際、ここを訪れる外国人の大半(と言っても数は少ないらしいが)は、この射撃目当てでやってくるという。ベレー帽の男はそれを当て込んで、ずっと僕につきまとっていたわけだ。
でも、残念ながら僕は銃というものにほとんど関心のない人間である。ヤクザ映画は嫌いだし、刑事ドラマも見ない。ゴルゴ13に憧れたこともない。
しかし、僕がいくら「興味ないんだ」と言って断っても、ベレー帽の男は簡単に諦めなかった。
「せっかくこの町まで来たんだから、一度は試してみるべきだ」と男は言った。「あんたの国では、銃を自由に撃つことはできないんだろう? こんなチャンスは滅多にないぜ」
確かに10発700円で実弾が撃てるというのは、日本人の感覚からすれば安いということになるのだろう。それでもペシャワールで僕が泊まっているホテルの3泊分以上という大金である。
「危険は全くない。それはいつも撃っている俺が保証する」と男は早口でまくし立てた。「よし、わかった。特別に300ルピーにまけておくよ。これ以上はまけられない。それでも撃たないで帰るって言うんなら、あんたは男じゃないな」
結局、僕は男のしつこさに折れて、銃を撃つことにした。男はマシンガンを強く勧めたが、僕は中国製の拳銃を選んだ。男の指示で、10歳ぐらいの男の子が的にするためのレンガを崖に置きに行った。的までの距離はおよそ30m。初めての射撃にしては、ずいぶん遠い距離だった。
「右手で銃をしっかりと握り、左手で右手の手首を支える。足は心持ち広めに開ける。顔を右肩につける。そして的を狙うんだ」
男が丁寧に撃ち方をアドバイスしてくれる。中国製の拳銃は見た目よりも重量感があって、伸ばした腕の先が小刻みに震える。片目をつぶって的と銃口を合わせ、息を整えてから引き金を引く。ドーン。
反動はそれほどでもなかったが、銃声は想像以上に大きかった。右耳がしばらくツーンとして何も聞こえなかった。
「弾は上に外れたみたいだな。難しいだろう?」
と男が言った。そして、「リラックス、リラックス」と僕の肩をぽんぽんと叩いた。でも結局、僕が撃った十発の弾丸のうち、レンガに命中したのは一発だけだった。どうやら僕の射撃の才能はたいしたことないようだ。
「一発当たったんだ。最初にしては、そう悪くはないさ」と男は僕を慰めてくれた。「でも、拳銃よりカラシニコフの方がすごいぞ。ダダダダと連続で弾が出る。気持ちがハイになる。去年ここに来た日本人の女の子は、カラシニコフを100発もぶっ放していったんだ。あれはすごかったな」
でも僕は「もう十分だ」と言って、彼に銃を返した。右の鼓膜がじーんと痺れていて、これ以上銃声を間近で聞く気にはなれなかった。右手には「これを至近距離で撃ったら、人は死ぬだろうな」という確かな手応えが残った。僕にはそれで十分だった。
激安マシンガンは職人の手作り
銃の試し撃ちよりも興味を引かれたのは、銃工場だった。なにしろ、コピー品とはいえマシンガンを6000円で作ってしまうというのだ。日本ならエアガンでも数万円はするというのに。いくら人件費が安いとはいえ、彼らはどのようにして激安の銃を作っているのだろうか。
しかしその謎は、工場を一目見た瞬間に解けてしまった。ダラの銃は全て職人による手作業によって、「家内制手工業」的に作られていたのだ。
とにかく使っている工作機械が恐ろしいほど古い。マシンガンの銃身は高校の技術家庭科の授業で見かけたような旧式のボール盤で削られ、拳銃の銃口の微調整は金ヤスリをごりごりと押し当てて行う。銃の弾丸をコーティングする機械は、天津甘栗を煎る機械にそっくりだった。
木製の銃座のラッカー塗りは半分リタイヤした老人の仕事で、遊びなのか手伝いなのかわからないような小学生ぐらいの子供も工具を手にしていた。そこには人を殺す為の道具を作る工場だとはとても信じられないような、牧歌的な雰囲気が漂っていた。
「全部手作業だからね。拳銃1丁作るのに2日かかる。ショットガンは5日、カラシニコフ銃は7日でできる」とベレー帽の男が説明してくれた。彼によれば、ダラにはこのような小さな銃工場が数百はあるという。
密造銃の工場というからには、ガードが厳しいのだろうと予想していたのだが、拍子抜けするほどオープンだった。写真撮影もOK。むしろ「今度は俺を撮ってくれよ」と向こうから催促されるほどだった。
「この銃は、ちゃんと使えるんですか?」と僕は男に聞いた。
「メイド・イン・ダラの銃は、安いけれど問題もある。時々暴発するし、壊れやすいんだ」
「それでも買う人がいるんですね?」
「たいていは、パキスタンのお金持ちが護身用に買っていくんだ。彼らは実際に撃つつもりはない。ただ銃を持っているという安心感が欲しいだけなんだ。だから、狙いが外れたって構わない。それなら安い方がいい」
「戦争に使うわけじゃないんですね?」
「そうだね。プロはこんなもの使わない。外国からいい武器を買っているさ。ところで、日本では銃は作っていないのかい?」
「銃を作るのも、銃を買うのも、法律で禁止されているんです」
「それは残念だな。日本の自動車や日本のテレビも世界一だ。アメリカよりも優れている。あの技術があれば、きっといい銃が作れると思うんだがな」
彼の言う通りだと僕も思う。ダラの工場にある貧弱な設備と手作業で、曲がりなりにもマシンガンを作ってしまえるのだから、日本の小さな町工場にあるNC工作機械が一台あれば、高性能な銃を作れるに違いない。銃というのは、自動車のエンジンシリンダーや半導体チップとは比較にならないぐらい単純な機械なのだ。
ガイド役の男は、「最後に面白いものを見せてやるよ」と言って、ポケットの中から一本のボールペンを取り出した。一見すると何の変哲もない黒いボールペンだが、手に持つとずしりと重かった。
「これはボールペンに見えるが、実は銃なんだ。ここに『Made in JAPAN』って書いてあるが、これはカムフラージュさ。ペンの先を取り外してから、小さな弾を込める。そして後ろのノックを押すと、弾が発射されるんだ。300ルピー(600円)だ。これだったら、日本に持ち込んでも大丈夫さ」
「これで人を殺せるんですか?」
「いや、それは無理だろう。小さな動物なら殺せるだろうがね。以前、ここにやって来た日本人も買っていったよ。どうだい、あんたも買わないか?」
ベレー帽の男は、試し撃ちの時と同じようにしつこくボールペン銃を売り込んだが、もちろん僕は買わなかった。「スーベニアだ」と彼は言ったが、こんな物騒な土産物を買えば、余計な面倒を背負い込むことになるのは目に見えていた。
ダラの町を一通り回ってしまうと、ペシャワールに戻るためにタウンエースに乗り込んだ。
「今度はカラシニコフをぶっ放しに来いよ。待ってるからな」
ベレー帽の男は、そう言って見送ってくれたが、もちろん僕にはこの町に戻るつもりなど全くなかった。
来たときと同じように、町には銃声が響いていた。しかし、最初は足がすくむ思いで聞いていたショットガンの音も、町を離れる頃にはほとんど気にならなくなっていた。パチンコ屋からけたたましい軍艦マーチが切り離せないように、絶え間ない銃声はダラの町から切り離すことのできないBGMなのだ。そんな風に思えるようになっていた。長旅をしていると、だんだんと神経が図太くなっていくものらしい。
十人ほどの乗客を乗せたタウンエースがペシャワールに向けて走り出すと、ダラの町並みはすぐにカーブの向こうに消えていった。その後に続くのは、乾燥した岩だらけの荒野だけだった。
町が視界から消えてしまうと、僕は急に全身の力が抜けたような強い脱力感に襲われた。僕はダラの町にいる間、ずっと緊張していた。そこは普通の日常の原則が通用しない特別な場所で、安全なのか危険なのかも実際に行くまでわからなかったからだ。その緊張感からようやく解放されて、ほっとして力が抜けてしまったのだった。
でも、脱力感の原因はそれだけではなかった。
ダラは「銃の町」という勇ましい名前とは裏腹に、実にのんびりとした町だった。特に職人達が小さな作業場で銃を作る姿は、日本の工業団地の一角にある小さな板金工場を思い出させるものだった。僕は元々コツコツと何かを作り上げるのを見ることが好きな人間だから、彼らの手先をただ眺めているだけでも面白かった。
だけど、彼らが作っているのは、紛れもなく人を殺すための道具だった。拳銃にもマシンガンにも、引き金を引けば相手を殺傷する強い力がある。その暴力的な現実と、目の前の牧歌的な光景とが上手く結びつかなくて、僕は混乱していた。無邪気な笑顔を見せていた子供達が、将来マシンガンを作るようになるのかと思うと、何だかやるせない気持ちになった。
「ダラの武器は戦争には使われない」
とベレー帽の男は言った。でも、その言葉をそのまま信じるわけにはいかなかった。隣国アフガニスタンでは、いまだに内戦の火種がくすぶり続けているからだ。
タウンエースに揺られながら、僕は自分の右手を眺めた。
そこには拳銃を撃ったときの感触が、まだはっきりと残っていた。