7325 ルーマニアの首都ブカレストは治安の悪い町だ――旅行者の見解もそれで一致していたし、ガイドブックにもはっきりとそう書いてあった。地下鉄やバスはスリだらけだし、町中には観光客を食い物にしている偽警官がいるし、正規料金の何倍もの値段を吹っ掛けてくるタクシーにも注意が必要だと。ブカレストに向かう列車に乗り合わせたルーマニア人でさえ、「この町はさっさと通り抜けた方がいい」と忠告してくれたほどだった。

 でも僕はそれらの忠告を話半分にしか聞いていなかった。「こんなにも危険だ」という予備知識はあまり当てにならないものだし、それを信じて過剰な防衛戦を張ってしまうことが反対に危険を呼び込むことにもなるのだということを、今までの旅の経験から学んでいたからだ。

 ところが、ブカレスト到着してからわずか2日の間に、僕は続けて3件のトラブルに遭遇することになった。予告されていた通り、「スリ」と「偽警官」と「ぼったくりタクシー」である。ブカレストは「掛け値なしに」危険な町だったのだ。

 スリの男にポケットを探られたのは、ブカレストに到着して30分と経たないうちの出来事だった。僕はホテルのある中心街に行こうと、鉄道の駅を出て路線バスに乗った。車内はそれほど混み合ってはいなかったのだが、バックパックを背負っていかにも今着いたばかりの旅行者という格好だったから、目立っていたのだろう。初めての国で初めて乗る交通機関だから、緊張してキョロキョロしていたかもしれない。

 

7315 バスに乗って1分と経たないうちに、ズボンのポケット辺りに妙な感覚があった。何だろうと視線を落とすと、背後から伸びていた手がすっと引っ込んだ。一瞬首筋の辺りに冷たいものが走った。やられたと思った。しかしすぐに、ポケットに入っているのがメモ帳とボールペンで、それも無事だと言うことが確認できたのでほっとした。(スリの男にはメモ帳が札束に見えたのかもしれない。ルーマニアはインフレが進んでいて最高額紙幣10万レイが400円の価値しかないので、旅行者が札束をポケットに詰め込んでいても不思議ではない)

 僕はすぐに振り返って背後に立っている男の顔を見た。長身で痩せた男だった。顔色は白く、年はまだ20歳そこそこに見えた。こんな時に英語なんて出てこない。とっさに口をついて出るのは、やはり喋り慣れた言葉だった。
「お前がやったんやろう! 俺は見たんやからな!」
 関西弁は怒鳴るとき使うと、勢いの出る言葉である。僕が突然怒鳴ったことで、男は一瞬びくっとしたが、しかし絶対に目線を合わせようとはしなかった。口元にばつの悪そうな、しかしどことなく人を馬鹿にしたような薄笑いが浮かんでいる。できることなら警察に突きだしてやりたいのだけど、どうすることもできないのがもどかしかった。そして男は次の停留所でさっさとバスを降りていった。

 

 

ぼったくりタクシーとニセ警官の手口

7481 ぼったくりタクシーに乗ったのも駅前だった。ブカレストの中でも特に危険なのが駅周辺らしい。その運転手は片言の英語を話し、観光客あしらいにも慣れた様子で、ブカレスト市内の見所などを一通り説明した。そして降りる段になって、堂々と相場の10倍近い値段を請求してきたのだった。(さっきも書いたように、ルーマニアの紙幣はとんでもなく高額だから、慣れない外国人旅行者がゼロの数をひと桁間違うこともざらにあるのだ)
「こんな値段のはずないやないか!」
 と怒鳴ると(ルーマニアに入ってから怒鳴ってばかりいる)、運転手は「この数字を見ろよ」とメーターを指さす。確かにメーターは男の言う通りに表示されている。メーターにまで細工を施しているらしい。しかしおかしいものはおかしい。押し問答が始まる。運転手は「この半分に負けてやろう」と言い出す。最初からそのつもりで吹っ掛けているのだ。

 結局、最初の言い値の5分の1になったところで、僕は金を支払った。これでも通常の2倍は取られているはずだから腹立たしかったが、これ以上交渉を続けても疲れるだけだと思って諦めた。タクシーが走っていたのが約10分。交渉にかかった時間が15分である。時間も金も2倍かかるというひどいタクシーだった。

 三番目の刺客、偽警官の手口は次のようなものだ。まず、道端でヤミ両替商を装った男が「チェンジ・マネー?」と声を掛けてくる。無視すれば問題ないのだが、そこで立ち止まったり話を聞く素振りを見せると、すかさず近くにいるブルーのカッターシャツを来た二人組が、警察手帳のようなものをちらつかせて「我々はポリスだ。パスポートを見せなさい」と詰め寄ってくる。ルーマニアではヤミ両替は違法だから、それを盾にして「お前は今、違法な両替をしていただろう」といちゃもんをつけて、財布の中身を見せるように言う。そして現金をチェックするふりをして、財布から紙幣を抜き取ってしまうのだ。

 

7149 僕はこの話を何人もの人から聞かされていたから、実際に男が「チェンジ・マネー?」と声を掛けてきたときも、「やっぱりあの話は本当だったんだ」と妙に納得しただけだった。その後の展開もまったく教科書通りだった。無視して通り過ぎてしまえば、それ以上追いかけてくることもなかった。どうしてこのようなわかりやすい詐欺師達が警察の手で取り締まられていないのか、そっちの方が不思議だった。

 しかし、この偽警官を警戒するあまり、ひどい目に遭った日本人もいた。
「道を歩いていたら、二人組の男が手帳を見せながら『我々はポリスだ。パスポートを見せなさい』と言ってきたんです。二人とも私服だったし、警察手帳も偽物みたいに見えました。だから僕はこれが噂の偽警官なんだと思いました。それで二人の言うことは無視して立ち去ろうとしたんです。ところが彼らは引き下がりませんでした。とにかくパスポートを見せろの一点張りなんです。僕は冗談じゃないと断固拒否しました。パスポートを取られたらおしまいですからね。ところが彼らは本物の警察官だったんです。そのことは警察署に連れて行かれたからわかったんですけどね。結局僕は公務執行妨害だかなんだかで、それから何時間か拘留されたんです。ひどい話だと思いませんか?」

 彼はこの話を「旅の失敗ネタ」としておもしろおかしく話してくれたわけだけど、僕はそれを聞いてこれは笑えない話だなと思った。そもそも旅行者が偽警官を過剰に警戒するような現状を作り出しているのは、警察の職務怠慢のせいでもあるのだ。それなのに被害者である旅行者を拘束するなんて、まったく本末転倒じゃないか。ぶざけるな。

 

7183 次々と襲いかかってくるトラブルによって、僕はブカレストの治安の悪さを実感した。そして、この国がイスラム諸国の続く「アジア圏」とは違う「ヨーロッパ圏」に属しているということを再認識したのだった。
 たとえ暮らしぶりは貧しくとも、「人のものを盗んではいけない」という基本的なモラルをひとりひとりが持っているのがムスリムだった。だから危険に対するセンサーを働かせないでも、旅を続けることが出来たのだ。
 しかしヨーロッパでは、そんな常識は通用しない。自分に降りかかる危険に対してもっと敏感になること、センサーのスイッチをもう一度入れ直すことが必要なようだった。