ダッカから北東に200km行ったところにあるスリモンゴルという町を訪れたのは、例によって風任せ的な気紛れからだった。ダッカという大都会は刺激的ではあったが、長くいるとこちらの頭までおかしくなりそうな場所だった。それに首都というのは、必ずしもその国を代表しているわけではなく、むしろ特別な所なのだということを、僕は今までの旅の中から感じていた。ラオスでもミャンマーでも、当たり前の田舎にこそ、その国「らしさ」が表れているように思った。
「そりゃあ、この街はひどいさ」とダッカの食堂で隣り合わせた男が言った。英語が話せるバングラ人は、珍しい外国人を見つけると黙っていることができず、親しげに話し掛けてくるのだ。「みんな仕事を求めて田舎からダッカに出てきたんだ。誰も好きで住んでいるわけじゃないさ。でも他の街はこうじゃない。全然違うんだ」
「それじゃあ、どこに行ったらいいんですか?」
「俺の故郷のスリモンゴルなんてどうだい? 茶畑があるけど、その他に特別なものは何もない。でも、静かでいい町だよ。まぁ、ここよりひどい場所なんて、どこにもないけどね」
そして僕はスリモンゴルへ向かう特急列車に乗った。バングラデシュは意外に鉄道網が整備された国である。目立った山のない平地ばかりの国土は鉄道向きだし、かつてイギリスの植民地だったことも影響しているのだろう。料金もスタンダードクラスで百三十タカ(二百六十円)と安く、窮屈で危険極まりないバスよりはずっと快適だった。
ただしスピードはとても遅かった。何しろ特急列車だというのに、二百キロ行くのに五時間半もかかるのだ。バングラの列車は、どういうわけか駅のないところでもしょっちゅう止まるし、鉄橋や踏切の近くでは必ずノロノロ運転になる。
そんな時に現れるのが、タダ乗りを企む子供達だった。彼らは目の前に遅い列車がやってくると、隙を見て線路脇から駆け出してきて、客車の手すりにひょいっとぶら下がる。駅員達はそんな悪ガキを見つけると、棒で叩き落そうとするのだが、子供の方も慣れたもので、攻撃を巧みにかわしながら次の駅まで行ってしまうのだった。
そんな駅員と悪ガキ達のユーモラスな戦いを眺めたり、時々うたた寝をしたりしながら、僕は列車の旅を楽しんだ。開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込み、土と水の匂いを運んできた。排気ガスに汚れたダッカの街にうんざりしていた僕にとっては、この新鮮な空気が何よりのご馳走だった。
外国人はエイリアン?
スリモンゴルで泊まったのは、シングルルームが一泊五十タカ(百円)という格安の宿だったが、その値段にも頷けるほどひどい部屋だった。共同バスルームには巨大なゴキブリが這い回っていたし、シャワーからは茶色く錆びた水しか出てこなかった。部屋に窓はなく、明かりは裸電球ひとつきりなので、中世の地下牢みたいに陰惨な雰囲気だった。
部屋のひどさには目をつぶるとしても、納得できないのが貸し自転車の値段だった。部屋代が五十タカなのに、自転車は一日に百タカも取るというのだ。冗談じゃない、と最初は突っぱねてみたのだけど、他に自転車を貸してくれそうなところはないし、彼らもそれを知っているので強気一点張りである。結局こっちが折れるしかなかった。
でも、負け惜しみを言うわけではないけど、僕にとって自転車は部屋代の二倍のお金を払う価値のあるものだった。ダッカではリクシャが僕の足だったが、まるで道を知らない上に法外な料金を吹っ掛けてくる困った運転手が多かった。その点、自転車なら好きなところに行って好きなときに帰って来ることができる。どこへでも行ける自由、それは僕にとって何ものにも代え難い魅力だったのだ。
スリモンゴルの町並みはとても小さく、自転車で走るとものの三分で田舎道に入った。一度町を出てしまえば、右に田んぼ、左にも田んぼ、という光景がずっと続く。頭に籠を乗せた女や水牛を連れた少年が、畦道をゆっくりと歩いている。確かに特別なものは何もなさそうな所だった。
田植えや雑草取りや耕耘などの農作業は、ほとんどが人の手か家畜の力によって行われていた。機械が入っている田んぼは、ごく僅かだった。バングラデシュは日本の三分の一の国土に、一億三千万人が住む人口過剰の国だから、とにかく人手だけは豊富にあるのだ。
昔ながらの稲作を営む農村の暮らしは貧しく、技術革新や経済のグローバル化からは、完全に取り残されているように見えた。でも、ここを歩く人々の表情は、過密都市ダッカの住人よりも、ずっと生き生きとしていた。
何はともあれ、彼らには耕すべき土地があるし、共に生きる家族がいる。大地に両足をつけて毎日を生きているということの「確かさ」が、彼らの顔つきに表れていた。
ダッカでは街を歩いていると、外国人を珍しがる子供達に、わらわらと後ろをついてこられることがよくあった。カメラを構えようものなら収拾がつかなくなり、『ハメルンの笛吹き』みたいに何十人もの子供が列をなしてついてくる事態になった。
しかし、スリモンゴルの子供達の反応は、ダッカとは異なっていた。外国人が珍しいことは同じなのだが、あまりにも珍しすぎるので、一種のパニック状態に陥ってしまうのだ。
その極端な例が、笛の少年だった。彼はショートパンツ一枚という格好で、椰子の木陰に腰を下ろして、横笛を吹いていた。その軽やかな音色にひかれて、僕は自転車を降りて少年に近づき、
「綺麗な音色だね」 と日本語で話し掛けた。こんなところで英語を話してもまず通じないし、それよりは日本語の方が気持ちが通じることが多いからだ。
彼は笛を吹くのを止めて、はっと僕の顔を見上げた。その顔には明らかな戸惑いの表情が浮かんでいた。
「その笛をもう一度吹いてくれない?」
僕は敵意がないことを示すために笑顔を作って言った。
少年の表情が恐怖に引きつったのは、その時だった。彼は声にならない悲鳴を発しながら、座ったまま後ずさりを始めた。それは『ジョーズ』とか『エイリアン』に出てくるような、鬼気迫る表情だった。そして彼は笛を置いたまま、ものすごい勢いで駆け出していった。僕は何が起こったのかわからないまま、彼の全力疾走をただ呆然と見送るしかなかった。
少年は田んぼを突っ切ると、五十メートルほど離れた場所にいた父親らしき男に抱きついた。どうやら父親は僕らのやり取りの一部始終を見ていたらしく、泣きべそをかいている我が子を笑いながらなだめてやった。
「大丈夫だって。あれはガイジンって奴だからよ。ほら、ハローって手を振ってみな。ハローって」
そんなことを言っているようだった。父親は僕の方に何度か手を振って、白い歯を剥き出しにして笑った。僕もつられて笑った。しかし少年は父親の足にしがみついたまま、絶対に僕を見ようとはしなかった。
彼はきっと生まれて初めて「外国語を話す人間」に話し掛けられて、その驚きのあまり逃げ出したのだろう。彼にとって外国人という存在は、エイリアン以外の何者でもなかったのだ。
小学校で教壇に立つ
たまたま小学校の側を通りかかったときも、大騒ぎになった。校庭で遊んでいた何十人もの子供は、笛の少年のように一目散に逃げ出したりはしなかったけれど、目の前の外国人に近づいていいものか計りかねている様子で、こちらの出方を窺っていた。そして、僕が試しにカメラを向けてみると、それが引き金となって全員が一斉にわっと逃げ出した。でも子供達の顔に恐怖の色はなく、なんだか面白い奴が来たから一緒に遊んでいるという雰囲気だった。
しばらくすると騒ぎは収まり、またカメラを向けると一斉に逃げ出す、ということを続けていると、学校から若い男の先生が出てきて、子供達に厳しい口調で教室へ戻るよう指示した。先生はかなり腹を立てている様子だった。言うことを聞かない生徒には、持っていた木の棒をぶんぶん振り回して、容赦なく教室まで追い立てていった。まるで山猿扱いである。とばっちりがこっちにも来なけりゃいいなぁと思っていると、先生はそれまでとはうって変わって柔和な表情で近付いてきて、僕と握手を交わした。
「あなたはどこから来たんですか?」彼はクセのある英語で聞いた。
「日本です」と僕は答えた。
「ここに来た外国人は、あなたが初めてなんです。だから子供達は驚いたんですよ。本当に申し訳ない」
先生は子供達の大騒ぎに、この外国人が気を悪くしたのではないかと心配しているようだった。
「いいんですよ。こういう反応には慣れていますから」
僕が言うと、先生は安心したように笑顔を見せた。
小学校は石造りの小さな建物だった。ここには一年生から五年生まで百人近い生徒がいるのだが、教室はひとつしかなかった。しかも教師はたった一人だという。中国映画『初恋のきた道』のような世界だ。
「いつもは三人の先生がいるんですが、今は二人が病気なので、私が一人で教えています」先生はそう言って肩をすぼめた。
そんなわけで、学習の能率はかなり悪そうだった。一年生から英語を勉強することになっているのだけど、教科書に載っている例文を理解している生徒は、誰一人としていなかった。試しに「What’s
your name?」と聞いてみても、みんなニコニコと首を振るばかりだった。中には教科書もノートも鉛筆も持たずに、ただ机に座っているだけという子供もいた。
「彼らは貧しくて教科書が買えないんです」と先生は言った。「そして彼らの多くが、三年生か四年生になると学校に来なくなります。農家では、十歳は立派な働き手なんです」
そう言われてみると、確かに高学年になるほど生徒の数は減っていた。そしてその傾向は女の子により顕著に見られた。
そして、僕は教壇に立つことになった。先生が「日本という国のことを、生徒達に話してくれませんか?」と言ってきたのだ。僕らはお互いに英語が十分話せるわけではないから、かなり無謀な試みではあったけれど、とにかくやってみることにした。僕がこの子達にしてあげられるのは、それくらいだろうから。
「日本はバングラデシュのずっと東にある国です」
僕が一文を話すと、先生がそれをベンガル語に訳した。僕はだいたいの世界地図を思い出して黒板に描き、バングラデシュと日本を丸で囲んだ。
「日本は周りを海に囲まれた島国です。日本にはバングラデシュとほぼ同じ数、一億二千万の人が住んでいます。でも、それ以外のことは大きく違っています。この国の大半が平地ですが、日本は山の多い国です。ですから人々は限られた平地に集まって住んでいます。気候も違います。今の時期、日本はとても寒く、時々雪が降ります」
校庭での騒ぎとはうって変わって、子供達は静かに僕の話を聞いていた。多くの日本人にとってバングラデシュがその距離以上に遠い国であるのと同じように、この子達にとって日本という国はとてつもなく遠い存在なんだろうな、と僕は思った。
「この国では大半が農民ですが、日本人のほとんどは農民ではありません。工場で自動車やテレビを作ったり、あるいはビルディングの中で働いています。ほとんどの日本人はハイスクールを卒業し、多くが大学で学びます。そして六十歳ぐらいまで働き、八十歳ぐらいまで生きます。日本人の大半が仏教、あるいは古くからある土着の宗教を信仰しています。そうですね、ムスリムはほとんどいません。日本人の家族はだいたい三、四人で暮らしています。父親と母親と子供が二人か一人。僕にも姉が一人います。あなたの家には何人の家族がいますか?」
僕は一番前の席に座っている、目のくりくりっとしたキューピーちゃんみたいな少女に質問した。
「十二人」
キューピーちゃんは両手の平を一度広げて、その後に二本指を立てた。隣の子もその隣の子も、十人以上の大家族だった。やはりどこも子沢山なのだ。
「この五十年で日本はとても豊かになりましたが、様々な問題も抱えています。問題のない国というのは、どこにもないのでしょうね。僕は二十六歳で、いま長い旅をしています。この三ヶ月間、東南アジアを旅しました。そしてバングラデシュにやってきて、このスリモンゴルを訪れました。これからインドに行き、パキスタンに行き、ヨーロッパに向かいます。それからどうするかは、まだ決めていません。でも、いつか日本に帰ります。そこが僕の国ですから」
僕が話し終わると、子供達は立ち上がって拍手をしてくれた。彼らがどの程度理解してくれたのかはわからなかったが、僕を見る目が話をする前とは少し違っているように感じられた。「謎のエイリアン」から「同じ人間」ぐらいには昇格したのかもしれない。
「ありがとう。あなたはきっといい先生になれますよ」
先生はそう言って、僕の手を握った。そして生徒達に何ごとか告げると、教室はわあっという歓声に包まれた。
「なんて言ったんですか?」
「今日の授業は終わりだと言ったんですよ。本当は三時までなんですが、まぁいいでしょう。今日は特別な日だ」
時計を見ると、まだ正午を過ぎたばかりだった。どうやら僕は暴風警報を出した大型台風のような扱いを受けてしまったらしい。
生徒が全員教室の外に出てしまうと、先生は丁寧に黒板を拭いて窓を全部閉め、表に掲げられた国旗を降ろした。
「そうだ。バングラデシュが日本と似ているところが、ひとつありますよ」
そう言うと、彼は降ろした国旗を広げてみせた。なるほど、と僕は頷いた。バングラの国旗のデザインは、日の丸にそっくりなのだ。違うのは、白地ではなくて緑地だというところだけだった。
「緑はバングラの大地を、赤は大地に昇る太陽を表しています」と彼は言った。「収穫期になると、この緑が美しい黄金に変わります。一番いい季節です。次に訪れるときには、ぜひ『黄金のベンガル』を見てください」
小学校の外には、国旗と同じ濃い緑色をした水田が、どこまでも広がっていた。詩人タゴールが讃えた『黄金のベンガル』も美しいに違いないが、この生命力に溢れた緑の広がる光景も、とても印象的だった。
柔らかな風が稲穂を揺らし、子供達の笑い声を運んでくる。雲間から顔を出した太陽が、水田の緑をいっそう強く輝かせる。この太陽だけは、日本でもバングラデシュでも同じなんだ、と僕は思った。