鮮やかなオレンジ色の袈裟を着た少年僧の列が、乾いた砂の上を音もなく歩いている。
僕は死んだように眠り込んでいる野良犬と一緒になって椰子の木陰に腰を下ろし、彼らの足が柔らかい砂に潜り込み、小さな足跡を作っていく様子を眺める。太陽はほぼ真上にあって遮る雲もなく、椰子の葉はカッターナイフで切り取られたようにくっきりとした影を落としている。少年僧の一人が僕の存在に気が付いたが、目が合うと慌てて視線を足元に戻してしまう。さらさらという微かな足音が遠のいてしまうと、砂の上に無数の足跡だけが残される。
プノンペン郊外の村―――たぶん名前もないような小さな村―――は昼下がりの気だるい静けさに包まれていた。バイクタクシーを村の入り口で待たせてから、僕はメコン川に沿った一本道を北に向かって歩いた。男達は田畑かあるいは町に働きに出ているようで、低い板塀に仕切られた高床式の家に残っているのは、女達と年寄りと子供ばかりだった。
偶然に任せてやってきた村で
僕は例によって、全くの偶然に任せてこの村にやって来た。最初、僕はベトナムと同じ方法論で、つまりレンタル自転車を使ってプノンペンの町を回ろうと思っていた。でもゲストハウスの従業員に聞いてみると、自転車は全て貸し出し中だという。仕方なく、僕は交差点にたむろしているバイクタクシーに声を掛けたのだった。
最初の運転手は「1日15ドルだ」と吹っ掛けてきた。でも、他を当たってみると、すぐに8ドルまで値が下がった。値段交渉にベトナム人のような粘り強さがないのは、旅行者としては大変ありがたいところだ。「あなた、どこ、行きますか?」と運転手の若い男はカタコトの英語で聞いた。「ワット・プノン? 王宮? それとも、国立博物館?」
「ノー。どれも興味ないんだ」
そう言ってから、目的地も決めないままにバイクタクシーと交渉している自分に気が付いて、思わず苦笑いしてしまった。行くあてのないまま出発する癖が付いてしまったのだ。「そうだなぁ・・・あっちに行こう」
僕は適当な方角を指差した。運転手は当惑した表情を浮かべて、僕の顔と指先とを交互に見比べた。「あっち、トンレサップ川。その向こう、メコン川。その向こう、何もない」「何もないの?」「そう。プアーな人、住んでる所」
「じゃあ、そこに行こう」
僕は後部座席にまたがり、もう一度あっちに行ってくれと指差した。運転手は一度だけ首を振ったが、それ以上行き先について意見を述べることは諦めて、バイクのスピードを上げた。その代わりに、彼は熱心なセールストークを始めた。土産物から、射撃場の紹介、売春の斡旋、良い大麻の情報など。だいたい旅行者の好むようなものは、ひと通りフォローしているらしい。特にしつこいのが女だった。
「エブリ・ジャパニーズ・ラブ・ウーマン。カンボジアガール・ビューティフル・アンド・チープ。オンリー・テン・ダラー」
そう早口でまくし立てた。相手が外国人だと見ると、このセリフを繰り返しているのだろう、そう言えば、僕が泊まったゲストハウスにも、2ヶ月も3ヶ月もプノンペンで過ごし、毎日のように女を買っている日本人の中年がいた。他人が女を買うことに口を挟むつもりはないが、僕は言葉もろくに通じない相手とセックスをする気になんて到底なれない。価値観の相違、あるいは性欲の水位の違い。
「女はいらないよ」
そう言っても、運転手のアサイはカンボジア女性の美しさについて、あるいは安全であることについて(これについてはかなり疑わしい)、そして安さについて、少ない語彙をフルに駆使して熱弁をふるった。途中から聞き流している僕の頬を、生ぬるい風が打ち続けた。
僕らはまず、トンレサップ川に架かる「カンボジア日本友好橋」を渡った。この巨大な鉄橋の真ん中には、カンボジア国旗と並んで、日本の援助で作られたことを示す日の丸が掲げられていた。交通量は多く、この橋がプノンペン市民の役に立っていることは間違いないけれど、それよりも先にあの国道一号線の穴ぼこを埋めてくれた方がいいのにな、とも思う。そっちの方が、援助の費用対効果はずっと高いはずだから。
橋を渡り、更に東に進むとメコンの流れに行き当たった。僕らはノルマンディー上陸作戦で使われた揚陸艦みたいな形の渡し船に乗って、メコン川を渡った。船着き場の付近には、小さな商店街と食堂があったが、その先は農村だった。椰子の木の間を子供を背に乗せた水牛がのっそりと歩いているような、典型的なメコンの農村だった。
「ほら、何もない」とアサイは肩をすくめてみせた。「いいんだよ。ここで」と言って、僕は歩き出した。
最初に気が付いたのは、この村の静けさだった。
プノンペンは首都だけあって、都市特有のノイズに支配された町だった。バイクの数が多く、建設中あるいは取り壊し中のビルディングが目立った。ホーチミン市ほどではないにしても、プノンペンも急速に都市化が進んでいるようだった。
しかし、そこから川を二本越えただけで、世界の様相はがらりと変わってしまう。そこではモーターバイクのけたたましい排気音はほとんど聞こえてこない。椰子の葉が風で擦れる音や、女達が操る機織りの乾いた音や、少年僧の足が砂を噛む小さな音が、この村の主役なのだ。
しばらく歩くと、男の歌声が聞こえてきた。太い枝を杖代わりに持ち、ボロ布一枚を身にまとった背の低い男が、うねるような独特の節回しで歌いながら、ゆっくり歩いていた。彼の左手にはひどく汚れた紙幣(カンボジアもまた硬貨のない国である)が何枚か握られ、右手に握った杖は捜し物をするように柔らかい砂の上を這う。盲目の歌い手なのだ。僕が500リエル札を握らせると、彼は歌いながら両手を静かに合わせた。彼の澄んだ声は、強い日差しとそれを反射する乾いた砂に混じり合って、非現実的に響いていた。
何もない。運転手のアサイが言った通り、ここは何もない村だった。首都から近いというのに電気すら通っていないのだ。その代わりに、自動車のバッテリーを自家発電機で充電して売る「バッテリー屋」が何軒かあった。世の中には実にいろんな商売がある。村人はその充電済みのバッテリーを家に持ち帰って、電化製品を動かしている。テレビがある家はまだまだ珍しく、それがどの家であるかは簡単に見分けられた。テレビを見に集まった近所の子供が、戸口の外にまで溢れているからだ。
子供達の遊びも、ほとんどが道具を使わないものばかりだった。せいぜいビー玉やゴム飛びや木の棒でのチャンバラごっこである。ベトナムでもそうだったように、子供達はとてもシャイで、カメラを向けると、(まさに蜘蛛の子を散らすように)わーっと逃げてしまう。僕は逃げる子供達を追いかけて、「ちびくろサンボ」の虎みたいに、木の周りをぐるぐると回ったりもした。結果的に遊ばれているのは、僕の方だった。
ポル・ポトはもう死んだ
十歳を超えたぐらいの女の子は、一家の働き手として小魚をさばくのを手伝ったり、糸を紡いだりしていた。この村では副業としての織物業が盛んらしく、どこの家にも昔ながらの織機を使って色鮮やかな布を織っていた。
僕が機織りの様子を眺めていると、高床式の家屋の床下で涼んでいる女達が手招きをした。僕は腰を少しかがめて、女達の輪の中に入れてもらった。高床の下はひんやりと心地いい風が吹き抜けていて、カンボジアの暑い午後を過ごすには最適の場所のようだ。
僕が「自分は日本人で、クメール語は理解できない」ということを身振りを交えて伝えると、最年長の老婆が家の中から一冊の本を持ってきた。それは厚みと大きさが電話帳ほどもある「英・クメール辞典」だった。僕らはそれを頼りに自己紹介を始めた。
老婆は65歳で、子供は7人いるという。「孫は何人いますか?」と僕が訊ねると、「とにかくたくさんだよ」という風に、大きく両手を広げて笑った。数え切れないぐらいたくさんなのだろう。
「26歳で、結婚はしていません」と僕が伝えると、老婆はそれについてクメール語で何かを言って、一座は大笑いになった。もてない可哀相な男だと思われたのかもしれない。
「戦争は終わりましたか?」 僕は辞書を使って老婆に聞いてみた。彼女は静かに頷いた。
「たくさんの人が死んだ」と彼女は言った。「でも、ポル・ポトは死んだ。クメール・ルージュもいない。終わったんだ」
彼女は深く皺の刻まれた人差し指で、辞書の「end」という文字を指し、曖昧な笑みを浮かべた。
ポル・ポト政権時代の圧政によって、カンボジアでは全人口のおよそ3分の1に当たる200万もの人間が死に至ったと言われている。このような世界でも稀に見る悲劇が、どうしてこんなに穏やかな暮らしを営む人々の間で起こったのか、僕にはわからない。ナチスと同じように、クメール・ルージュが政権を掌握したときも、国民は熱狂的に新しい政権を迎えた。そのクメール・ルージュが、カンボジア全土を虐殺と強制労働と飢餓で覆い尽くし、「キリング・フィールド」と言われる惨状を生み出すまでには、わずか数年の時間しかかっていない。
このような、あまりにも巨大な現実の負の力を見せつけられるとき、僕はある種の無力感に囚われる。このような悲劇は、「たまたま」20年前のカンボジアに起こったというだけであって、この世界のどこにでも起こり得ることなんじゃないだろうかと。僕らが平和だと信じている世界は、意外にも脆く、あっさりと覆ってしまうものなんじゃないだろうかと。
「あの子の夫」
老婆はハンモックを揺らしている若い母親を指差して言った。そして、右足の膝のあたりを手で切る真似をして、辞書をめくって「爆弾」という単語を引いて見せた。あの母親の夫は爆弾か地雷で足を失った、そういうことだろう。内戦は確かに終わったが、その傷跡は簡単に癒せるものではないのだ。
ハンモックを覗くと、そこにはまだ生まれて何ヶ月かの赤ん坊と3歳ぐらいの子供が、仲良く並んで眠っていた。安心しきった表情だった。僕は最後に「Peace」という単語を辞書で引いて、老婆に見せた。彼女は何も言わずに頷いた。
夕方(と言ってもまだ4時なのだが)になると、仕事から帰ってきた男達が自宅の庭先で開く宴会で、村は少し賑やかになった。まだ日が高いというのに、すっかり出来上がっているおっさん達に呼ばれて、僕も酒をご馳走になった。クメール語と日本語でお互い好き勝手なことを言い合い、無色透明の強い酒を飲み、キュウリの漬物やレバーの煮物や豚の脂肪といったつまみを食べていると、あっという間に時間が流れていった。
日が暮れ始めた頃、一人の男が馬車に乗ってやってきた。村の入り口まで送ってやるから乗っていけ、というのである。僕はサスペンションも何もない馬車の荷台の上で、野菜と一緒にがたがたと揺られながら、歩いてきた道を戻った。馬車の振動が酔いの回りを早くしたようで、すっかりいい気分になってしまった。
運転手のアサイは、バイクにもたれ掛かって煙草を吹かせながら、僕を待っていた。「何もなかっただろう?」
彼は煙草を投げ捨て、僕が帰ってきた一本道を指差した。「うん。何にもなかった」
そう言って、僕はバイクの後ろにまたがった。