ひんやりとした石のテラスの上に寝そべって、晴れ渡った空を見上げる。おろしたてのシャツのように真っ白な雲とは対照的に、アンコールワットの外壁は数百年分の風雨に洗われて、くすんだ鼠色の岩肌を見せている。刻まれた彫刻の多くは、溶け始めた氷の彫刻のように原型を留めていない。
正午を少し回った頃のアンコールワットは、不思議な静けさに包まれている。午前中にツアーバスでやってきた大勢の団体ツアー客も、今頃は広大なアンコール遺跡群に散らばっていることだろう。そして日没が近くなると、サンセットを見物するために、彼らは再びここに戻ってくる。その二つのピークの間の人気のない時間帯を見計らって、僕はこのテラスを訪れる。そして石の床の上に寝転がって、ただ頭の中を空っぽにして、白い雲を見上げるのだ。
僕はアンコールワットでの気ままな昼寝を三日続けて楽しんだ。回廊に描かれた「乳海攪拌図」のレリーフや、優美なポーズで立つ女神の彫像など、見るべきものは数多くあるのだけど、僕がアンコールワットで最も気に入っていたのは、静けさの中にある居心地の良いテラスだった。
三日目は、この指定席に先客がいた。丸坊主に無精髭、擦り切れたジーンズというスタイルの日本人だった。彼の顔には、長く旅をしている人間独特のやり場のない疲労感が滲んでいた。
「僕は旅を終わらせるために、ここにやってきたんですよ」と彼は言った。 「半年の間、アジアの各地を旅したんですけど、アンコールワットだけは取っておいたんです。たくさんの旅行者と話をしても、アンコールを悪く言う人はいないんですよ。口を揃えて、『あそこにだけは行った方がいい』って言うんです」
「それで、旅を終えられそうですか?」
僕がそう訊ねると、彼は黙ったまま、しばらく空を見上げた。「そうですね。たぶん、帰ることになると思いますよ。いつまでも旅を続けるわけにもいかないですから」
僕は黙って頷いた。アンコールワットは、長旅のゴールに最も相応しい場所のひとつだと思う。この広大な遺跡は、見る者を圧倒する非日常のモニュメントなのだ。そこを目指した者の気持ちを裏切らないだけの説得力が、アンコールワットにはあった。逆に言えば、もしここで旅を終えることが出来なかったら、彼のゴールはずっと先になってしまうだろう。
「あなたはどこまで行ったら終わりにするか決めているんですか?」「さあ・・・それは、まだ決めてません」
遅かれ早かれ、旅を続けている人間は、終わりについて考えなくちゃいけないのかもしれない。とは言え、僕の旅はまだ始まったばかりで、ゴールを意識するには早すぎる。
「ところで、アンコールの遺跡の中でどこが一番気に入りましたか?」 と彼は僕に聞いた。「タ・プロムですね」
僕がそう答えると、彼は自分もだ、と大きく頷いた。
凶暴なまでの自然の力
最初にタ・プロム寺院を見たとき、僕は全身に鳥肌が立つのを覚えた。これほど圧倒的な、凶暴なまでの自然の力というものを、目にしたことがなかった。
かつて壮麗な石造りの寺院だった建物には、何本ものガジュマルの大木が絡み付き、丸太ぐらいの太さの根を縦横に伸ばしていた。その姿は、植物の営みという枠を遙かに越えて動的だった。まるで大蛇が獲物に巻き付いてじわじわと締め上げ、最後には命を奪っていくように、ガジュマルの根は石と石の隙間に入り込み、次々と壁を破壊し、寺院を自分の勢力下に納めていた。植物が無生物であるはずの寺院の生命力を吸い取っているようにさえ見えた。
何という強さだろう。僕は植物の持つ底知れない力に圧倒されて、呆然とその場に立ちつくした。
生い茂った木々からは、甲高いセミの声が降り注いでいた。ヒグラシに近い声だが、それよりも一段階高く、金属的な響きのする奇妙な音だった。電波望遠鏡で拾った宇宙の雑音が、あるいはこんな音だったかもしれない。その音が、この場の現実感を更に遠のかせていた。
僕は崩れ落ちたブロックの上に座って、長い間ガジュマルの木を見上げた。1時間経ち2時間が経っても、僕はタ・プロムを離れることが出来なかった。どうしてこの樹木はこんなにも野放図で、荒々しい破壊者になることができたのだろう。その疑問が頭から離れなかった。
セミの声に混じって鳥のさえずりが小さく聞こえる。風が吹くと落ち葉がかさかさと動く。蟻の隊列がガジュマルの根の上を忙しく行き交う。短パン姿の観光客が何人か通り過ぎる。鼻の頭が日に焼けて赤くなった欧米人の婦人が木の前でポーズを取り、夫がシャッターを切る。
短い時間にいろんなものが動き回る。しかしその間、寺院の壁面やガジュマルの木は、ぴくりとも動かない。当たり前のことだ。樹木はそう簡単に成長しないし、石はすぐには風化しない。
五百年前、一粒の変わり者の種が最初に寺院の壁に落ちた。そして、周囲の落ち葉を養分として次第に根を張っていった。何百回もの雨季と乾季。幾度かの戦争と王朝の交代。その間にも、ガジュマルは少しずつ成長を続けた。それはやがて空を覆うほどの巨木になり、永久不変にも思えた大寺院は朽ち果てていった。
元々、この土地は彼らジャングルの木々のものだった。そこに王朝が栄えて、滅んでいった。人の営みなどは、彼らの時間感覚からすれば、ほんの一瞬の出来事だったのだろう。ガジュマルは決して破壊者ではない。自分たちの領土を取り戻しているだけなのだ。
自らの手で宇宙を創り出したかった
アンコール朝の王族達は、永久的に存在するひとつの宇宙を自らの手で創り出したかったのだろう。でも「永遠」が人の手で作り出せるはずはない。
世界の中心・須弥山を模したといわれるアンコールワットの中央祠堂も、巨大な仏頭が林立するバイヨン寺院も、宇宙的な規模で見る者を圧倒するけれど、結局は千年も経たないうちに崩れ去ってしまった。
かたちあるものはいつか崩れ、まばゆいばかりの黄金もやがてはどこかへ持ち去られてしまう。残るのはその残骸だけだ。そしてその残骸も、時間が経てば自然に飲み込まれて、失われていく。
アンコールという夢の跡を歩くと、自分という存在が取る足らない小さなものだと強く感じる。そして自分もまた、いつかは失われてしまうんだという事実に思いを馳せる。