3833 トレッキングの間、僕らは1時間半歩くと30分休憩を取るというペースで歩いた。あまり頻繁に休憩すると逆に疲れるし、かといって慣れない山道をそれ以上歩くと、足が言うことを聞かなくなるからだ。休憩は茶屋で取ることが多かったが、ない場合にはチョウタラという場所で休んだ。

 チョウタラというのは、大きな菩提樹を腰の高さまである石垣で囲ったもので、古くから山道を歩く人々の休憩所として使われてきたという。植えられた菩提樹は樹齢百年を超えるような立派なものも多く、その木陰に座すわっていると全身の汗がすっと引いていって、何とも心地よかった。

 僕らは毎日6時間ほど歩いた。峠道を登り、崖のような急斜面を下り、段々畑の縁を歩き、乾期で干上がった川底を歩いた。ネパールには平地というものが本当に乏しく、だからこそ段々畑を切り開いて作物を育てているのだということが、実感としてよくわかった。

 山道には思いのほかたくさんの人々が歩いていた。山から薪を運んでくる女達や、村から町へ用事をしに出掛ける人や、町から村へ荷物を運ぶ男達である。人以外には荷物を背負ったロバも見かけた。

 ネパールの山村は、いまだに交通手段が徒歩しかないというところが多い。大きな町から離れるにしたがって道は狭くなり、車が入ることはできなくなるからだ。そこでは生活雑貨や食料品などの荷物は、運び屋の男達が一日あるいは数日かけて歩いて運んでくる。彼らは荷物を背中には背負わずに、ひもを額に引っかけるようにして運ぶ。素人目には首が疲れて大変だろうと思うのだけど、ラオスの山岳民もやはり同じような運び方をしていたから、これが最も合理的なやり方なのだろう。

3779 一度、卵を運んでいた十代半ばの少年に声を掛けて荷物を担がせてもらったのだが、想像以上に重たくて、よろけそうになった。20kg以上はあったと思う。体格がいいわけではないごく普通の少年が、そんな大荷物を担いで表情ひとつ変えずに山道をすたすたと登っていくのである。全くたいしたものだと思う。しかも、彼らが履いているのは薄っぺらいビーチサンダルなのだから驚いてしまう。山岳民の足腰の強さと抜群のバランス感覚は、ここで生まれ育つ中で自然に鍛えられたものだから、都会育ちの僕が同じ土俵で勝負できるはずもないのだろう。雪国育ちの人がスキーを得意にしているのと同じことなのだ。

 19世紀前半にイギリスとの間に起こった戦争でも、地の利を生かしたネパールの兵隊は善戦した。最終的に条件付きで降伏はしたものの、インドのような植民地化は免れ、逆にネパールの優秀な兵士達はイギリス軍に傭兵(グルカ兵)として雇われることになった。重い荷物を担いで何日も山道を歩き続ける体力と忍耐力は、実に兵隊向きだったのだろう。

 
 

ネパールの将来のためには教育が一番大切

 かつてグルカ兵だったという老人が、僕に話し掛けてきたことがあった。迷彩柄のジャケットを肩に羽織り、同じ柄の帽子を頭に乗せた粋な老人で、他の農民達とは明らかに雰囲気が違っていた。
 彼は若い頃シンガポールや香港に駐留したときのことを懐かしそうに話した。何度か日本の港にも行ったことがあるよ、とも言った。しかしガイドのサンタは、その老人に対してあまりいい印象を持っていないようだった。最初は老人と僕が英語で話していたのだけど、途中からサンタが入ってくると、二人はネパール語で熱い議論を戦わせ始め、僕はすっかり蚊帳の外に置かれてしまった。

3780「彼は古い人間です」
 議論が終わったしばらく後で、サンタは僕に言った。
「彼はグルカ兵として高い地位に登りつめたのに、外国で得た経験やお金をちっとも地元に還元しようとしない。年金をもらって楽に生活しているのに、遊んでばかりいるんです」
 サンタはいつになく饒舌だった。地酒のチャンをかなり飲んでいたこともあって、彼の顔は赤く上気していた。
「今までネパールは、グルカ兵のような人々に頼ってきました。あの老人のように外国で働く人がネパールの実家にお金を送って、それで家族が食べていたのです。でもネパールも変わらなくてはいけない。自国の産業が必要です。そのためには教育が一番大切なんですよ。彼はそのことをまるでわかっていないんだ」

3814 ネパールの将来のためには教育が一番重要だ。これはサンタが繰り返し言い続けていることだった。実際に彼は元グルカ兵の老人だけではなく、行く先々で出会う大勢の人々に対しても、教育の重要性を説いて回っていた。
 例えば、午前中の早い時間に親の仕事を手伝っている子供を見つけると、
「どうしてお前は学校に行っていないんだ?」
 と厳しく詰問した。そう言われた子供は困った顔で、近くにいる母親に助けを求める。すると、今度は母親に対して「どうしてこの子を学校へやらないんだ? 仕事をさせるのは学校が終わってからにするべきだ」と詰め寄るのである。母親は「めんどくさい奴だな」という煙たそうな顔をしているのだが、サンタはそんなことには構わずに、とにかく教育が大事なんだと訴え続けた。

「私も貧しい農家の生まれです」とサンタは言った。「だけど教育を受けたお陰で英語が話せるようになったし、外国のことを知ることができるようになった。世界が広がりました。ガイドをやっているお陰で、私は人よりもいくらか豊かになることができた。でもそれだけじゃないんです。学ぶことによって、心の中も豊かになることができるんです」

 しかし、サンタの理想主義的な考え方と農村の現実とは、相当なギャップがあるようにも見えた。農家は子供達を学校にやるよりも家の手伝いをさせる方を優先するし、学校の側も環境が整っているとは言い難かった。サンタの故郷の村でも、それは同じだった。

 
 

大半の生徒は途中で学校をやめてしまう

3842 トレッキング4日目に、僕らはサンタの故郷のダンダカルカ村を訪れ、小学校にもお邪魔した。いかにも山の分校といった風情の小さな学校だったが、生徒数は125人とかなり多く、そのわりに教師は3人しかいなかった。
「本当はもう一人先生がいるんです」と一番英語が得意な若い女教師が言った。「でも昨日、その彼が怪我をしたんです。頭のおかしい男が、後ろから石を投げつけたんです。頭からたくさんの血が流れて、大変な騒ぎになりました。だから彼はしばらく学校には来られません」
 女教師は悲しそうに眉をひそめた。5学年を4人で受け持つこと自体に無理があるのに、更に一人が欠けることになって、教師達はかなり動揺しているようだった。

 10時半に始業の鐘が鳴らされると、生徒全員が校庭に整列する。多くの生徒がブルーのカッターシャツに紺色のズボンまたはスカートという制服姿だが、中には私服の子供もいる。
 生徒が整列したのを確認すると、校長先生が軍隊式の号令をかける。気をつけ、休め、気をつけ。国歌斉唱。気をつけ、休め、気をつけ、敬礼。それぞれの教室に戻れ。それは僕らが子供の頃にやった朝礼と雰囲気は似たものだったが、もっときっちりとした軍隊式だった。

3847 このように朝の集合はビシッと行われるのだけど、それが終わってしまえば気楽なものだった。特に先生の来ない教室(5学年に先生が3人しかいないわけだから、必然的に2学年は自習になる)では、勝手気ままにお喋りをしたり、男の子がちょっかいを出し合ったりしていて、いっこうに勉強する気配はなかった。

 教室の机は、大きな石を積み上げた上に木の板を渡しただけの粗末なもので、生徒達はその上に誰かからのお下がりと思われるボロボロの教科書とノートを広げていた。もちろん電気は来ていないから、教室の中はひどく暗い。

 そんなわけで、出来の良さそうな女の子の一団は、ふざけ合う男子の歓声が飛び交う教室を抜け出して(あんな悪ガキは相手にできませんわ、という顔をして)、日光の降り注ぐ校庭でノートを広げて書き取りの自習をしていた。同じ年齢の子供なら女の子の方が遙かに精神年齢が高いというのは、どの国でも同じなのだろう。

 僕は5学年全ての教室を覗いてみたが、バングラデシュの小学校と同じように、上の学年に行くほど生徒の数は少なかった。全校生徒125人に対して、5年生はたったの6人。しかも全員が男子だった。大半の生徒(特に女子は)は途中で学校に通うのをやめてしまう。それが現実だった。

3848 子供達が学校へ行っている頃、ダンダカルカ村の広場では、村人が集まって集会が行われていた。意見のある人が輪の中心に立って話し、それについて10人ほどの男女が意見を述べ合う。輪の周りには2,30人の村人が座っていて、議論の様子をじっと見守っている。

 一見のどかで争いごとなどなさそうに見えるこの村にも、もちろん討議すべき議題はある。今、ネパールの山村が共通して抱えているのは、急増する人口に対して、耕作地や燃料の薪が足りないという問題である。ダンダカルカ村はまだ深刻ではないが、危機的状況に直面してる村も少なくない。

 例えば、ここから二時間ほど歩いたところにある川沿いの村は、崩壊の危機に晒されている。その村は比較的耕作に適したなだらかな斜面にあるのだが、近年耕作地を広げるために木を切りすぎたせいで山の保水力が失われてしまい、雨期になると起こる洪水のたびに畑が流されているという。

 僕は山歩きの途中で、その村の様子を目にした。川の浸食を受けているのは畑ばかりではなく、去年の洪水では何軒かの農家も流されてしまったのだとサンタは言った。
「家を失った人々はどこへ行くんだろう?」と僕はサンタに訊ねた。
「おそらく仕事を求めてカトマンズへ出ていったのでしょう。そうするしかないんです」
 サンタはため息混じりに言った。しかし、たとえカトマンズへ出たとしても、飽和状態にある都市で簡単に仕事が見つかるわけではない。観光以外にこれといった産業のないネパールにとって、農村からも都会からも溢れつつある人口をどこで吸収するのかは、もっとも解決の難しい問題になっているのだ。

 「教育の遅れ」と「人口増大」と「環境破壊」は、ネパールだけではなくアジアに(そしておそらく世界中の貧しい国々に)共通する課題だ。陸の孤島として自給自足の生活を続けているネパールの農村も、こうしたグローバルな問題と無関係ではいられない。
「私たちは自分の周りの小さな世界だけではなくて、外の世界も知らなければいけません」
 とサンタは言った。そしてもちろん、こう付け加えることも忘れなかった。
「そのためには教育が一番重要なんです」