男くさい国・パキスタン
男くさい国。それがパキスタンの第一印象だった。
町を歩いていても、視界に飛び込んでくるのは、男の顔ばかりだった。もちろん、女性が歩いていないわけではないけれど、女性はみんなチャドルという布を頭から被っているので、顔を見ることができないのだ。
そして、その男達がみんな「濃い」のである。彫りの深い顔、顎と口元に蓄えた立派なひげ、繋がらんばかりの眉毛、腕や胸からのぞく剛毛。いずれをとっても、非常に濃い。体格も立派である。胸板が厚く、腕が棍棒のように太い。
ラホールの下町で僕に声を掛けてきたアッサードという男も、逞しい肉体と濃い髭を持つ典型的なパキスタン男性だった。
彼が「How are you?」と言ったので、僕も「I’m fine」と教科書通りに応じると、彼はにっこりと笑って握手を求めてきた。濃い外見とは反対に、とても人懐っこいのがパキスタン人なのだ。アッサードの右手はとても分厚く、その感触はアジア人よりも欧米人に近かった。
「あんたチャイニーズかい? それともコリアン?」彼は僕の右手を握りしめたまま続けた。「ああ、ジャパニーズなのか。俺は日本は好きだよ。だって日本はアメリカと戦争した国じゃないか」
どうやら彼の頭の中では、「反米=親日」という図式が出来上がっているようなのだけど、当の日本は今や世界でも稀に見る親米国家になっているのだから、世の中というのは複雑である。
「俺はこの近くの法律事務所で働いているんだ」と彼は言った。「あんた、スポーツは好きかい? 今からトレーニングに行くんだけど、どうだい、一緒に来ないか?」
「トレーニングって、何のトレーニングですか?」
「まぁ、来ればわかるよ。ここからすぐなんだ」
「ボクシングジムですか?」
僕は試しに言ってみた。アッサードの顔つきが若き日のシルベスター・スタローンによく似ていたからだ。
「いいや。ちょっと惜しいが、違うね」と彼は首を振った。「答えが知りたかったら、俺について来なよ」
アッサードはラホールの下町を早足で進んだ。僕は彼の姿を見失わないように後を追った。僕らは灰色の塀が続く狭い路地を、黙々と歩き続けた。僕は何度か、「まだ着かないのか?」と声を掛けたが、そのたびにアッサードは「もう少しだよ」とだけ言った。
歩き始めてから10分ほど経っただろうか。もう引き返すべきだろうかと思い始めた頃、彼はようやく立ち止まった。
「この中なんだ」
アッサードはそう言って、小さな木戸を押し開けた。そこは建てられてから2,30年は経っていると思われる、古いコンクリート造りの建物だった。ウルドゥー語で書かれた看板が一枚掲げられていたが、それが何を意味しているのかわからない。雰囲気はかなり怪しげである。
こんなところに本当にトレーニング場があるんだろうか。この男は僕を騙そうとしているんじゃないだろうか。そんな疑問が頭をもたげたが、僕は意を決して木戸をくぐった。中を確かめたいという好奇心には勝てなかったのだ。
しかし、怪しげな外見とは裏腹に、建物の中は極めて健全だった。そこには15人ほどの男達がいた。彼らはそれぞれバーベルを持ち上げたり、ウェイトを引っ張る運動をしたり、大きな鏡を見ながら力こぶを作ったりしていた。
「どうだい? 立派なもんだろう?」
ずらり並んだマッチョマン達に圧倒されている僕の肩をアッサードが叩いた。彼は僕を驚かせるつもりで、何も言わなかったらしい。
「ここはボディービルのジムなんだ。ラホールにはジムがたくさんあるが、ここが一番レベルが高いんだ。みんないい体だと思わないか?」
彼の言う通り、ここにいる男達はみんなアッサードと同じように胸板が厚く、腕が太かった。パキスタンの「濃い」男達の中でも、選りすぐりの「濃い」連中だった。ジムの中を支配しているのは、ナルシシズムのこもった視線と、頬を伝う汗と、筋肉から発散される熱気である。ここは、まさに「男の殿堂」なのだ。
アメリカは嫌い。でもシュワルツェネッガーは好き
男達を見下ろす位置には、アーノルド・シュワルツェネッガーの白黒写真が掲げられていた。シュワルツェネッガーはマッチョ界におけるインターナショナルなカリスマであり、筋肉の聖人のような扱いなのだ。
「アメリカ人は嫌いなんじゃないんですか?」
僕は白い歯を見せて笑うシュワちゃんを指さして言った。
「彼はドイツ生まれさ。それに俺はアメリカ人が嫌いというわけじゃないんだ。アメリカという国のすることが気に入らないだけさ」
アッサードはまず軽く準備体操とばかりに、75kgのベンチプレスを20回上げた。それからダンベルを使ったトレーニングを何種類かこなした。
「仕事が終わると、ここにやってきて体を鍛えるんだ」とアッサードは言った。「毎日オフィスでの事務仕事だからね。こうでもしないと、からだがなまってしまうんだ」
ジムには仕事帰りの男達が続々と集まってきた。新しい仲間が来るたびに、アッサードは「やぁ久しぶり、元気かい?」と声を掛け、しっかりと抱擁を交わした。挨拶としての軽いハグではなく、プロレスのベアハッグのようにぎゅっと力を込めて抱き合う。そして、国際線ロビーの恋人同士みたいに、抱き合ったまま30秒ぐらいじっとしている。
男同士の熱い抱擁は、ラホールの町中でもしょっちゅう目にするものだった。ひげもじゃの男同士がしっかりと手を握り合って道を歩く姿も、ごく当たり前に見られた。僕がカメラを向けると、冗談交じりに隣の男の顔にぶちゅっと接吻する男もいた。パキスタン人の男達はとにかく友情に厚く、その表現がとても大袈裟なのだ。
アッサードはサーキット・トレーニングを一通りこなすと、ジムを出て、僕と一緒に近くのフルーツシェーク屋に入った。僕らはバナナシェークを頼んだ。
「汗をかいたあとは、これだね」
彼はそう言うと、美味しそうに喉を鳴らせながら、冷たくて甘いシェークを一気に飲み干した。
パキスタンの男は、基本的に甘党である。イスラムの戒律で飲酒が禁じられているから、その代わりに甘いものに群がるのだそうだ。仕事終わりの一杯、もしくはスポーツ後の一杯が、生ビールではなくて生ジュースなのだ。
日本だと、男一人でケーキ屋に入ってレアチーズケーキを頬張っていようものなら、女性客から白い目で見られそうだが、パキスタンでは逆に女性が外食をしている姿を見かけることがなかった。それでは、女性は甘いものを食べないのかというと、そんなことはなくて、父親や夫がお土産に買ってきたものを、家の中で食べているのだという。
ラホールの町中にはフルーツシェーク屋がたくさんあったが、アッサードが勧めるだけあって、この店のバナナシェークは絶品だった。ミルクのコクとバナナの程良い甘みの取り合わせが絶妙だった。このシェーク屋はマッチョ連中の溜まり場になっているらしく、壁には先ほどのボディービル・ジムの勧誘ポスターが貼ってあった。大胸筋を誇示するポーズを決めて満面の笑みを作るマッチョマンの写真の下に、英語でこんな文句が書かれていた。
《我々は強い男を作るだけではなく、強い国(nation)を作っています》
男は強くあらねばならず、国もまた強くあらねばならない。インドという大国と対等に張り合っているパキスタンという国の根底に流れる理念が、こういうところに表れているのかもしれないな、と僕は思った。バナナシェークを飲みながら強い国家について考える国民も珍しいとは思うけど。
パキスタンにもゲイは多い
「あんたはどうして一人で旅をしているんだ? 寂しくはないのか?」
二杯目のバナナシェークを飲み干したアッサードが僕に尋ねた。同じような質問を、僕は何人ものパキスタン人から受けた。常に誰かと大声で挨拶を交わし、熱い抱擁を繰り返しているパキスタン人にとって、見知らぬ土地を一人で旅している男はとても不思議な存在に見えるようだった。
「一人で旅するのが好きなんですよ」
そう答えると、彼は理解できないという風に首を傾げた。
「俺は以前、サウジアラビアで働いていたことがあるんだ」と彼は言った。「そこでは日本人もたくさん働いていた。彼らはいい人だったけど、とてもシャイだった。仕事のときはいつもコンピューターに向かったっきりで、周りの人間と話そうとしないんだ。そういうところが、俺には理解できなかった。あんたら日本人は、みんな一人でいるのが好きなのか? だから一人で旅をするのか?」
「そういうわけじゃありませんよ」と僕は言った。「でも、パキスタン人と日本人はずいぶん違いますね。だいたい日本では、男同士が手を繋ぎ合って街を歩いたりしないから」
「どうして?」
「さぁどうしてかな。誤解されるのが嫌だからかな。つまり、日本で男同士が手を繋いでいると、『この二人は本当に愛し合っているんじゃないか?』って疑われてしまうんですよ」
「ああ、ゲイのことか」とアッサードは笑った。「でも、実はパキスタンにもゲイは多いんだ。これはあまり大声で言ってはいけないんだけどね。あんたも気をつけた方がいい。親切にしてくる男には、よく注意することだ」
「でも、イスラムではゲイはタブーなんじゃないんですか?」
「その通り。もちろん、してはいけないことだ。だけど、中には『フレンドシップ』が『ラブ』に変わってしまう男もいるんだ。この国では、男女が自由に恋愛することは許されていない。結婚するまで男女が一緒に歩くこともできない。だから、仲のいい男の友達に愛情を感じる奴がいても、おかしくはないだろう?」
「なるほど」
と僕は頷いた。男女の自由恋愛ができないから、同性間の愛情が芽生えやすい。その説明は、一応筋が通っているように思えた。それにしても、ジムにいたような胸板の分厚いマッチョマンに迫れたら、僕なんてひとたまりもないだろう。
「くれぐれも注意することだよ」
アッサードはもう一度言った。