0933 フエの駅に降りたのは午後の2時。ハノイから16時間の列車の旅だった。
 前日まで雨が降っていたらしく、道路のあちこちには水たまりができていた。12月のベトナムというのは、雨の降らない乾季だとばかり思っていたのだけど、どうもそうではないらしい。南部では確かに乾季なのだが、フエのあるベトナム中部は雨季なのだという。何しろ南北に長い国だから、南部と北部で気候が違っているのは当たり前なのだけど。

 改札を出ると、さっそく客待ちしているシクロに取り囲まれた。シクロというのは、ベトナムの自転車タクシーである。自転車タクシーなら他のアジア諸国にもあるが、シクロは客を乗せる台車が後ろではなく、前に付いているところに特徴がある。客を引っ張るのではなくて、押すのである。ちょうど満月の空を飛ぶ「ET」みたいな格好で進むのだが、これはなかなか爽快だった。

 最初に近づいてきたシクロマンは、「1km2000ドン(13円)で行く」と言った。何人かと交渉してみたけれど、だいたいその辺りが相場のようだった。ところが、いざホテルに着いて金を払う段になって、ひと悶着あった。シクロマンが「1万4000ドン払え」と言ってきたのだ。
「さっきは、1km2000ドンだと言ったじゃないか。7キロも走ったのか?」と僕は抗議した。「そうだ。ベリー・ロング・ウェイだ。1万4000ドンだ!」 たった15分の道のりの、どこが『ベリー・ロング・ウェイ』なんだ。どんなに走っても、せいぜい2kmじゃないか。冗談じゃない。

 僕らはしばらく「約束通り払え!」「いいや、お前が間違っている」と言い合っていたが、シクロマンも強気で全く折れる様子がない。「俺は30分でも1時間でも粘ってやるぜ」という構えである。こういうときのベトナム人は、とてもタフなのだ。結局、僕は交渉を諦めて、渋々1万4000ドンを渡したのだった。
 たかだか5、60円の違いに何を熱くなっているんだ、と思う人も中にはいるかもしれない。確かに微々たるお金ではある。でも旅行者というのは、その土地に入ってしまえば、自然と現地の物価感覚で行動するようになるものだし(もちろん物価はとても安い)、相場の何倍もの値段を吹っかけられるというのは、値段に関係なく腹の立つものなのだ。「観光客や思て、ナメとったらあかんぞ」と関西弁で凄みたくもなる。

1027 しかし、僕の方にも落ち度はあった。《金の交渉は乗る前に済ませておく》というのが、アジアでタクシーに乗るときの大原則なのだ。それを曖昧にしてしまったから、後になって揉める結果になったのだ。だからこの時は、これも勉強代なんだと自分を納得させたのだった。

 だけど、「ぼられずにタクシーに乗る」というのは、いくら経験を積んでも難しいものである。こっちが値切ったつもりになっても、相手は一枚も二枚も上手なのだ。初めての土地で、相場もわからず、しかも観光客が多いとなると、適正価格で乗るのはほぼ不可能だと考えていい。値段交渉も楽しみのひとつだと割り切ってしまえば、いちいち腹を立てることもないのだけど。

 ベトナムのシクロとの言い争いは、これから僕を待っているカンボジアのバイクタクシーや、インドのリクシャや、パキスタンのスズキといったユニークな乗り物の頑固な運転手達との、絶え間ない交渉のほんの始まりに過ぎなかったのだ。

 
 

シクロマンが頑なだった理由

0936 僕はホテルに荷物を置き、すぐに自転車を借りて、町を走ってみることにした。
 ハノイの喧騒に慣れてしまった目には、フエはとてものんびりとした町という印象を受けた。ハノイではバッタの大群みたいにバタバタと走り回っていたバイクの数が、この町ではぐっと減り、代わりに自転車やシクロがゆったりと道路を行く。「200万総暴走族」的にクレイジーなクラクション・ノイズもここではほとんど聞こえてこない。カランコロンというシクロ独特の間延びしたベルの音が、幾重にも折り重なって町中に響いている。野良牛か迷い牛かは知らないが、交差点の真ん中を水牛がのっそりと渡っていく。バイクも車も、スピードを落としてその迷い牛を避けていく。

 フエは19世紀にベトナムを統一したグエン朝の首都が置かれてた古い都なのだが、今は人口21万の小さな町に過ぎない。「ベトナムの京都」なんて言い方は安直過ぎて好きではないけれど、確かにそういう雰囲気である。雨季のせいで、古い石造りの王宮の壁は深い緑色の苔に覆われていて、それが古都のしっとりとしたイメージをより強調している。

 王宮の外を流れる川には、小さな木造のボートが何十隻も浮かんでいた。それは見るからに貧しいボートピープルの家だった。ボートの前には天秤籠を下げたおばさんと、シクロマン達が何十人もたむろしていた。一家の収入は親父さんの乗るシクロと、お母さんの物売りで賄われているのだろう。

 僕はその中に、1万4000ドンを吹っかけてきた、あのシクロマンを見つけた。男は自分のシクロの客席に深々と体を埋めて、煙草の煙をゆっくりと吐き出していた。その姿は、強気で値段交渉をしていた時とは違って、弱々しく疲れて切っているように見えた。それでぼられた腹立たしさが消えたわけではないが、絶対に折れなかった男の頑さの裏側にあるものが、少しだけわかった気がした。

 

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初めてなのに懐かしい風景

0943 フエの市街から鉄橋を渡ると、風景は一変する。青々とした水田の横でのんびりと草を食む水牛。水門から勢いよく噴き出す茶色く濁った水。間近で聞こえる蛙の鳴き声。そんな田園風景が延々と広がっている。

 水田には何十羽もの家鴨が放されていて、熱心な様子で水の中にくちばしを突っ込んで、害虫を食べている。家鴨が大きく育てば、食用として市場に運ばれて、農家の貴重な現金収入に変わる。まさに「循環型農法」である。近年、日本でも自然農法への回帰が試みられているけれど、ベトナムでは農薬や化学肥料の普及が遅れた分、昔からの生活の知恵がまだしっかりと残っているのだ。

 農民の足はバイクや自転車なのだが、一人に一台行き渡っているというわけではないらしく、農作業帰りの男が、走ってくるバイクにひょいと手をあげて、ヒッチハイクをする姿もよく見かけた。

 シクロも女性や老人にとっては大切な足なのだが、一台に出来るだけ大人数で乗って、一人分の料金を安くあげようとするから大変である。
 老婆1人に子供6人という、合計7人の乗客を乗せたシクロが、ぬかるんだ道をノロノロとやってきたこともあった。いくら商売とはいえ、立ち漕ぎをして息も絶え絶えになっている痩せたシクロマンは、さすがに気の毒だった。子供たちは珍しい外国人の姿を見つけると、手に持っていたバナナを振って、口々に「ハロー」と叫んだ。僕も手を振ってそれに応えた。

 ベトナムに来て以来、僕はなぜか「懐かしさ」を感じ続けていた。混沌としたハノイの街も、雑然とした市場も、こののどかな水田も、どこか懐かしかった。初めて目にしたはずなのに、ずっと以前から知っているような気がしていた。

0953 ベトナムを訪れる年配の日本人の多くが、「ここには高度成長期以前の日本がある」と感じるという。かつての日本に当たり前にあったもの、そして今は失われてしまったノスタルジックな風景が、ここにはあると。
 でも、僕はかつての日本の農村の風景を、実体験として記憶しているわけではない。僕が生まれ育ったのは京都の都市部だし、田舎というものに対して特別な思い入れを持っているわけではない。
 それでも、この風景の中には心を揺さぶるものが確かにある。静かで濃密な空気の中に含まれている何かが、僕を捉える。

 この「懐かしさ」の源は一体何なんだろう。
 僕は畦道を引き返しながら考えた。しかし、それは答えが簡単に見つかるような疑問ではなさそうだった。この疑問に自分なりの答えを出すためには、多くの道を歩き、多くの土地の空気を吸い込む必要があるのだろう。
 旅はまだ始まったばかりなのだ。