スラム街で輝く少女
その少女と最初に出会ったのは、バングラデシュの首都ダッカにある巨大なスラム街「ボスティ」だった。鉄道の線路沿いに広がるボスティは、バングラデシュの中でも最も貧しい人々が集まる場所で、住民は風雨をしのげるかどうかも怪しいようなあばら屋に住み、独特の異臭が漂う中で暮らしていた。
道端には、飢えのために下腹がぽっこりと張った物乞いの子供や、ゴミ箱を漁ってバナナの皮や発泡スチロールを口に入れようとする少年がいた。様々な障害を持った人々が、それをさらけ出すことで日銭を稼ぐ姿もあった。そんな貧しい暮らしの中にあっても、人々は逞しさや陽気さを忘れてはいなかった。
少女はそんなスラム街にいた。彼女は汗と埃で汚れたシャツを着て、共同の井戸から水を汲んでいた。背筋をぴんと伸ばし、両腕に力を込めて、ぐいぐいとポンプを動かしていた。それは街のどこでも見られる光景なのに、彼女の身のこなしには特別な美しさがあった。力強く、それでいて優雅だった。全身から生きる力がみなぎっていた。
ダッカは様々なものが混ざり合った街だった。醜いもの、美しいもの、臭いもの、絶望的な貧困、したたかに生きる力。そのような混沌を肌に感じたくて、僕はボスティを歩き続けた。
12歳のジャーナラ
3年ぶりに訪れたボスティは、貧しさも臭いもゴミの多さも、何も変わっていなかった。ダッカの中心街には次々と新しいビルが建ち、数年の間にその姿を大きく変えていたが、経済成長の余波も貧困層までは届いていないようだった。廃材とボロ布を組み合わせて作ったあばら屋が、線路沿いに延々と続いている。その数はこの3年で増えているように見えた。
少女を探すのは難しいと思っていた。ボスティには数万の人が住み着いているし、出会った場所をはっきりと記憶しているわけではなかったからだ。少女が3年後も同じ場所に住んでいるという保証もなかった。このような仮の住まいに、何年にも渡って住み続けることの方が珍しいだろうし、政府が強制的に立ち退きを迫ることもよくあると聞いていた。
しかし、少女は意外なほどあっさりと見つかった。それは大きくプリントした写真の力によるものだった。線路沿いの水場で炊事や洗濯をしているおばさんたちに片っ端から写真を見せて回っていると、すぐに「この子なら知っているよ」という人が現れたのである。大都会の真ん中に住んでいるとはいえ、狭いスラムで肩を寄せ合うようにして暮らす人々が持つ共同体意識は、むしろ村社会のそれに近いものなのかもしれない。
おばさんが案内してくれたのは、線路の脇に広がる湿地帯の上に建つ、高床式のあばら屋が集まった集落だった。そこはスラムの中でもとりわけ臭いの強い地域だった。ゴミだらけの湿地帯から、下水溝の中にいるような強い臭気が立ち上ってくるのである。お世辞にも住み心地のいい環境とは言えなかったが、それでも雨風をしのげる場所があるだけマシなのだろう。
竹製の細い渡り廊下をしばらく歩くと、少女の家にたどり着いた。少女は家の中にいた。おばさんが声を掛けると、彼女がひょこっと顔を出した。3年前のイメージと大きくは変わっていなかったが、体がひとまわり大きくなり、「少女」というよりは「大人の女性」に近くなっていた。
僕はそこで初めてジャーナラという彼女の名前と、12歳という年齢を知った。
「12歳だって? ということは、3年前は9歳だったってこと?」
何かの間違いではないのか。そう思って僕は聞き返した。目の前のジャーナラはどう見ても16,7歳にしか見えなかったし、3年前の写真にしても9歳だとは思えなかった。
バングラ人は基本的に老け顔である。それは男でも女でも同じで、おじさんっぽい顔の男が、まだ二十歳そこそこだったりすることは決して珍しくない。
しかしそれを差し引いても、ジャーナラの成長は特別に早い。来年あたりには子供がいてもおかしくないような年にも見える。実際、彼女が幼いきょうだいを叱りつけるときの声や表情は、若い母親のようでもあった。
「本当に12歳なんだね?」
僕はもう一度確かめた。ジャーナラの兄が何とか片言の英語を理解できたので、彼が通訳してくれた。
「そう。12歳よ」
とジャーナラは大きく頷いた。もはや疑う余地はなかった。
ジャーナラの家は4畳ほどの広さの部屋がひとつあるだけだった。天井も低く風通しも悪いので、とても暑苦しいのだが、そこに両親と6人のきょうだいが一緒に暮らしているという。家族揃って寝ているときは、ほとんど身動きが取れないに違いない。
家財道具はほとんどなかった。何かを置けるようなスペースはないし、何かを買うような余裕もないのだろう。井戸や炊事場やトイレなどは、家の外にある共同のもので間に合っているようだった。
父親はリキシャ(三輪自転車タクシー)の運転手で、長男は建設現場で日雇い労働をしている。その二人の稼ぎが一家8人を支えているという。リキシャの運転手は元手もなく始められるので、特別な技能やコネを持たない人間がもっとも手っ取り早く就ける仕事である。商売道具であるリキシャは元締めのところから1日50タカ(100円)で借り受ける。町を一日流して稼げるのはだいたい150タカ(300円)ほど。したがって、一日の収入は差し引き100タカ(200円)ほどになる。
物価がとても安い国とはいえ、200円で家族を養うのは至難の業である。怪我や病気になって働けなくなっても保障はないし、毎日悪夢的な排気ガスに包まれたダッカの街を走り回らなければいけない。仕事に就くのはイージーだが、労働現場は過酷なのである。
「仕事は大変ですか?」と僕が訊ねると、
「楽な仕事なんてないさ」
と父親は答えた。確かにその通りだった。
ダッカの光と影
ジャーナラの両親はもともとは地方の農村で暮らしていたのだが、仕事を求めて首都ダッカにやってきたという。仕事のない故郷を離れて、「何とかなるだろう」という気持ちで大都会に出てきたのはいいけれど、そこでの暮らしは農村以上に大変なものだったという話は、ジャーナラの家族以外からも何度か聞かされた。
バングラデシュの田舎はとても貧しい。農作業は昔ながらの手作業に頼るところが大きく、道路や電気や水道といったインフラの整備も遅れている。けれど、農村に住む人々は土地に結びついて生きているから、食べ物に困ることはまずない。周辺の町や村も同じように貧しくて、だから自分たちの貧しさをことさら意識する必要はない。
しかし都会に出てきた途端に、彼らは貧しさに直面することになる。スラム街のすぐ近くには外国資本で建てられた高級ホテルや、豪華なショッピングセンターがあって、線路脇のあばら屋はその高いビルディングからちょうど見下ろされる格好になる。桁違いの豊かさが、最底辺の貧しさのすぐ隣にあるのだ。
豊かさがあって、はじめて貧しさが意識される。それは光と影のような関係で、光が強くなればなるほど、影もくっきりと目立つようになる。そのことが極端な形で露出しているのが、ダッカという街なのである。
「スラムに住む人間は、教育を受けていないから避妊の重要性がわかっていない。だから7人も8人も子供を作る。馬鹿げているよ。セックス以外に何の楽しみもないんだ。彼らはバングラデシュの汚点だよ」
ダッカ大学に通うインテリの若者は、そんな風に言った。僕も彼の意見の前半部分には概ね同意する。スラムに住む家族の多くは子沢山だったし、ジャーナラの両親もまともな教育を受けずに育っていた。子供がたくさん生まれることで、一家の暮らしぶりはますます困窮しているように見えた。
この国の抱える問題の根本には、増え続ける人口がある。バングラデシュは日本の三分の一の国土しか持たないのに、日本とほぼ同じ1億3000万の人口を抱えているのだ。人が多すぎるのである。しかもそれはまだまだ増え続けている。
ガンジス川が流れ込むデルタ地帯にあるバングラデシュは、もともと土壌にも水にも恵まれていて農業生産力は高いのだが、それが人口増加によって相殺されていくという歴史を辿ってきた。
バングラデシュに必要なのは、効果的な人口抑制策だ。それは間違いない。けれど、スラムの住民がバングラデシュの汚点であり、セックス以外に何の楽しみもない負け組だという傲慢な意見には、僕はまったく同意できない。
ジャーナラの家族は最底辺の環境にいながらも、毎日を精一杯生きている。そして6人の子供のうちの少なくとも一人は、生き生きとした笑顔で僕の心を打った。彼女たちはこの国の汚点などでは決してない。僕にとって、ジャーナラはダッカという街の中でもっとも輝いているもののひとつだったのだ。
僕は狭い家の中で、ジャーナラの家族と話をし、一緒にお茶を飲んだ。頼みの綱の次男の英語能力が不十分だったので、僕らのコミュニケーションはたどたどしいものだったけれど、家族の暮らしぶりや親子の関係はよく伝わってきた。
ジャーナラは家族の中で気の強いお姉さん役を担っているようだった。声は少しハスキーで、体も大柄。だから同年代の子供に比べると、ひときわ落ち着いているように見えるのだった。
彼女は汚点なんかじゃない
バングラデシュには全部で3週間滞在した。ダッカに着いた翌日にジャーナラを訪ねてから、バングラデシュの各地をバスで巡る旅を続けたのだが、その間もずっとジャーナラと家族のことが頭から離れなかった。
バングラデシュという国全体から見ても、あのスラム街の貧しさは際立っていたし、ジャーナラがあの街でどのように育っていくのかを考えたときに、決してポジティブな気持ちにはなれなかったのだ。「バングラデシュの汚点だ」という大学生の言葉も、魚の小骨のようにチクチクと引っかかっていた。
そんな割り切れない思いを抱えながら、僕はもう一度ジャーナラの家を訪ねることにした。ダッカ空港からカトマンズへ飛ぶフライト当日のことだった。
その日は朝から雨が降り続いていた。モンスーンの時期はもう少し先だが、それでも三日に一度は雨が降るようになっていた。雨のスラムはいつも以上にもの哀しかった。線路沿いに並ぶ家々は、汚れた南京袋を屋根代わりにしているので、降り続く雨によって暗い色に染まり、雨の重みで大きくたわんでいた。
人々は雨を避けるためなのか、この日行われる大規模なストライキのせいで仕事ができないからなのか、家の中からぼんやりと外を眺めながら過ごしていた。外に出ているのは子供たちだけだった。彼らは雨のことなど気にもかけずに、古タイヤを転がしたり、木ぎれでチャンバラごっこをしたりして遊んでいた。
ジャーナラの家に行くと、片言の英語を話す次男が出てきて、妹は出かけているんだと言った。
「どこに行っているの?」
「スクール」
「そうか、彼女は学校に行っているのか・・・」
ジャーナラは学校に行っている。そのひと言によって、僕は少しほっとした気持ちになった。12歳の子供が学校に通うのは、ある意味では当たり前である。しかし一家の暮らしぶりや、彼女のひどく大人びた外見を目にしたあとでは、当たり前のことが当たり前に思えなくなっていたのだ。
アジアの貧しい国々では、家庭の事情から小学校に通えない子供たちも大勢いる。ジャーナラがその一人ではないということは、彼女の置かれた状況が最悪ではないということを意味していた。
「ジャーナラに『さよなら』と伝えておいてくれないかな。僕はもう行かなくちゃいけないから」
僕が身振りを交えながらそう言うと、次男はわかったと頷いた。
ジャーナラの家族に別れを告げて家の外に出てみると、さっきまで降り続いていた雨が止み、雲の間から強い光が幾筋も差しているのが見えた。井戸の周りには、雨が止むのを待ちかねていた女たちが水瓶を持って集まりだしていた。
井戸のポンプを動かしているのは、3年前のジャーナラと同じぐらいの年の女の子だった。僕がその様子を眺めていると、その視線に気付いた彼女がこっちを向いて笑った。素敵な笑顔だった。体を目一杯動かしているとき、懸命に働いているときに、人は一番素直に笑えるのかもしれない。
彼女の姿は美しかったが、僕はカメラを向けなかった。このシーンはあえて写真に撮らないでおこうと思ったのだ。
その方がより強く心に残るだろう。そんな気がしたのだ。