世界最悪の大気汚染

ba04-8101 ダスティーでノイジーでクレイジー。それが2001年に初めてダッカを訪れたときの第一印象だった。ダッカに一日いると目が痛くなり、二日目には喉に違和感を感じ、三日目になると原因不明の頭痛に襲われた。

 ダッカの大気汚染は世界最悪の水準だった。狭い道路にひしめき合った車やバスから野放図にばらまかれる大量の排気ガスが、上空にスモッグの傘を作っていた。道路はゴミで溢れかえり、路地裏からは大便と小便の混ざり合ったひどい悪臭が漂ってきた。

 そのイメージが強く頭に残っていたから、三年後にダッカを再び訪れたとき、「おや?」と思った。悪夢的な排気ガスに満たされているはずの道路を歩いても、呼吸が楽にできるように感じたのだ。「きれいな空気」とまではもちろん言えないけれど、「世界最悪レベル」ではなかった。バンコクやデリーやホーチミンといったアジアの首都の標準レベルぐらいまでは下がっていた。

 それでもダッカ初日は、「自分がアジアの首都の汚さに慣れただけなのかもしれない」とも思っていた。旅人というのは、旅を重ねるに連れて不便さや汚さや食べ物のまずさを許容できるようになっていくものだから。

 

 

排気ガスの規制が街を変えた

ba04-9980 ダッカの空気が三年前よりも綺麗になっていることを確信したのは、ダッカ滞在二日目だった。街で知り合った雑貨屋の店主に何気なく「ダッカの空気が綺麗になっている気がするんだけど」と話を振ると、彼がその理由を教えてくれたのだ。

「ダッカにはボディが黄色の『ベイビータクシー』がたくさん走っていただろう? あれが汚染の原因だったんだ。2サイクルエンジンで黒い排気ガスがもうもうと出る。そのベイビータクシーが2年半ほど前に全部禁止になったんだ。その代わりに緑色の4サイクルエンジンのベイビータクシーが走っている。空気が綺麗になったのは、こいつのお陰さ」

 

ba04-7742 確かに彼の言う通りだった。以前には我が物顔で街を走り回り、排気ガスをまき散らしていた黄色のベイビータクシー(オート三輪タクシー)が、今ではただの一台も走っていなかったのだ。それに代わる緑色の新型車は4サイクルエンジンのCNG(液化天然ガス車)で、お尻から出る排気ガスは目に見えて少なかった。

 普通、政府によってこのような強制措置が行われたとしても、なかなか徹底できないものである。2サイクルエンジンで営業していた業者からは、強い反対意見があったに違いない。かかった経費も莫大なものだっただろう。

 

ba04-7745 それを短期間でやり遂げたのは、本当に驚くべき事だった。「なんだ、バングラ人だってやればできるんじゃないか」と僕は思った。それと同時に「それならなぜ、今まで放ったらかしにしていたんだろう?」とも思った。状況がそれほど切迫していたということなのだろうか。

「空気が綺麗になったのは、この街に起こったただひとつの良い出来事だよ」
 と雑貨屋の店主は笑いながら言った。しかし僕の見たところ、他にも「良い出来事」はいくつかあった。そのひとつが「プラスチック袋の使用禁止」である。雑貨屋で買い物をしたり、パン屋でパンを買ったりすると、今までなら必ず薄いプラスチック製の袋に入れてくれていたのだが、それが紙袋に変わったのである。しかもそこで使われているのは古紙だった。例えばバナナを包んでいたのは微分方程式がびっしりと書かれたノートだったし、マスカットの包装には英作文の練習問題が書かれていた。きっと大学生が勉強に使ったものなのだろう。リサイクルもここまで徹底していると気持ちが良かった。

 

ba04-0509 ただしプラスチック袋禁止措置には抜け道もあるらしく、ベイビータクシーのように徹底されているわけではなかった。それでも街は目に見えて綺麗になっていた。今まで町角に吹き溜まっていたゴミの量が減り、水面がゴミで見えなくなっていた川も元の姿を取り戻しつつあった。

 プラスチックゴミの処分は、バングラデシュに限らずアジアの国々に共通する問題である。インドでもネパールでも、安いプラスチック袋の乱用と、ゴミ回収システムの未整備によって、街は汚れる一方だった。そんな中で、世界でももっとも汚い街のひとつであったダッカが、この問題に前向きに取り組んでいることには大きな意味があると思う。ダッカでもやれたのだから、他の街でやれないはずはない。

 

ba04-8309「俺はこの街がずっと大嫌いだった」と雑貨屋の店主は言った。「臭くて汚くて、外を歩くのが嫌だった。故郷の田舎に帰るのだけが楽しみだった。でも最近は違う。空気が綺麗になれば、気分だっていい。少しはこの街が好きになってきたんだ」

 バングラデシュはイギリス植民地時代からジュート(黄麻)の輸出が盛んだった。ジュートは南京袋や絨毯の裏に使われる安くて丈夫な素材なのだが、近年は石油化学製品に押されて売り上げが落ちていた。しかし天然素材であるジュートの方が環境に優しいということで、再び輸出が伸び始めているという。そしてプラスチック袋規制によって、国内でもジュートの良さが改めて見直されているのだそうだ。

 もちろん、現在のダッカは「環境に優しい街」とはとても呼べない状況にある。垂れ流しの汚水、未整備の下水道、街に散乱する生ゴミ、拡大するスラム街・・・。解決しなければいけない問題は山のようにある。
 それでも排ガス規制やプラスチック袋禁止はめざましい効果を上げているし、それが継続できればダッカの街はもっと住みやすくなるに違いなかった。

 

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肥満児が増えた街

ba04-8930 三年前にはどうしようもなく混乱した街に見えたダッカだったが、着実な経済成長を背景にして、現代的な都会へと姿を変えつつあった。街の中心部に高層ビルが並ぶようになり、メインストリートにはモダンなショッピングセンターやファストフード店や外国車のディーラーなどが目立つようになった。

 豊かな消費生活を楽しむ富裕層が確実に増えている。そのことが顕著に表れていたのが、ダッカ北部のグルシャン地区だった。お金持ち用の閑静な邸宅が建ち並ぶグルシャン地区は、本来なら僕にとって用のない場所なのだが、この地区にあるパキスタン大使館でビザを取る必要があったので、何度か足を運ぶことになったのである。

 グルシャン地区を歩いていて、まず目に付いたのは肥満児だった。まるまると太った制服姿の子供たちが、私立の小学校から自宅まで運転手付きの外国車で送り迎えされている光景を頻繁に目にしたのである。太った子供、シミひとつない制服、外国車。いずれもダッカの他の地区ではほとんど見かけないものばかりだった。

 雑然としたダッカの旧市街を歩いているときに、太った子供と出会うことはまずない。無駄な肉が付けられるほど食生活が豊かではないのだ。スラム街に行けば、栄養不足でお腹がぽっこりと突きだした子供たちも多い。そういう街を歩き回っていたからこそ、グルシャンで見かける小綺麗で太った子供たちの姿が余計目に付いたのである。

 

ba04-0497 これはあくまでも僕の推測なのだが、肥満児が多いのは、貧しさから豊かさへの途上にある社会なのではないかと思う。自分が子供の頃に食べ物で苦労した記憶を持つ親は、どうしても自分の子供に甘くなる。「好きなものを好きなだけ食べさせてやろう」という気持ちが生まれやすくなる。実際、経済成長を続けるタイの首都バンコクでは太った子供が多かったし、僕が子供の頃にもクラスの中に何人か肥満児がいて、昼休みに痩せるための体操をさせられたりしていた。

 ところが経済成長が一段落し、社会が成熟していくと、肥満児の数は減っていく。これは満腹が当たり前になり、親たちが食べ物を与えすぎることの害を心配するようになるからだろう。今の日本で太った子供を見かけることは、以前よりずっと少なくなった。

 

ba04-8011 グルシャン地区で見かけた肥満児たちは、バングラデシュが貧しさから豊かさへ向かう過渡期にあるということを象徴している。しかしそれは高度経済成長期の日本のように「社会全体が豊かになる」という一体感を伴ったものではない。ダッカには栄養過多でお腹に肉が付きすぎた子供がいる一方で、栄養失調でお腹が突きだした子供もいる。外国車で送り迎えされる子供と、ゴミを拾って生活費を稼ぐ子供が、すぐ近くに暮らしている。豊かさの象徴は、矛盾と格差の象徴でもあるのだ。

 ダッカの豊かな面の象徴がグルシャン地区の子供たちであるなら、貧しい面の象徴は物乞いたちということになるだろう。

 

ba04-8305 物乞いは人の集まる場所ならどこにでもいるのだが、特に多いのが金曜礼拝が行われているときのモスクの前である。イスラムではその教えの中で「喜捨」を奨励しているので、礼拝に訪れる人はいつも以上に物乞いに施しを与えることが多いようだった。大きなモスクの前には、十人以上の物乞いたちが並んで手を差し伸べている事も珍しくなかった。

 物乞いの多くは異様な外見をしていた。手や足が無い、目が見えないなどの「欠損」を抱えた物乞いも多かったが、それ以上に目立っていたのが「過剰」な人々だった。ソフトボールを飲み込んだように喉が大きく膨れあがっている人、頭の大きさが普通の二倍以上ある巨頭症の子供、目の上にできたコブが肥大化し顎にまで垂れ下がっている人・・・。

 僕は今までにも数多くの物乞いを目にしてきたが、ダッカの物乞いたちの姿はもっとも酷かった。誰もが目を背けたくなるような凄まじい異形だった。しかし、僕にとって本当にショックだったのは、彼らが自らの異形を——もっと言えば醜さを——拠り所にして生きているという現実だった。その姿を人前にさらし、同情を誘うことによって、彼らは物乞いとして生きているのである。

 あまりにも苛烈な現実を前にして、僕はしばらくのあいだ言葉を失った。僕にできることと言えば、物乞いたちが捧げ持つ小さな皿の上にいくらかの小銭を載せることだけだった。それだって正しい行いなのか、間違ったことなのか、よくわからなかった。そしてその場を通り過ぎた後も、ずっと彼らの「過剰」な姿が頭から離れることはなかった。