日本政府と世界銀行の資金援助によって建設されたバングラデシュ最大の橋「ジョムナ橋」を渡ったところにタンガイルの町はある。バングラデシュには川幅の広い大河が多く、それが陸上交通の妨げになっているから、橋を架ければ利便性は飛躍的に増すはずである。
しかし、そのわりに「ジョムナ橋」の交通量は少なかった。それはたぶん高い通行料のせいだろう。橋のたもとにある料金所には「普通車400タカ(800円)」「大型バス800タカ(1600円)」と書いてあった。バングラデシュの物価を考えると、これはかなり割高なのである。
タンガイルはこれといった特徴のない平凡な町だったが、ある一角に集まっていた女たちの姿は強く印象に残っている。
その女たちは町の中心から少し外れたところにある、レンガ造りの民家が建ち並ぶ一角にたむろしていた。どの女もとても濃い化粧を施し、派手な色のサリーを身にまとい、安っぽいアクセサリー類で飾り立てていたから、遠くからでもよく目立った。お祭りでもあるのだろうか。最初はそんな風に考えていた。
バングラ女性は基本的にシャイで、あまり表に出たがらない人が多いのだが、彼女たちはニコニコと愛想がよかった。僕に向かって「ハロー!」と声を掛けてくる女の子もいた。しかし僕がカメラを向けようとすると、きっぱりと拒絶された。ある女は顔を背け、ある女は怒り出した。その変わり身の早さは尋常ではなかった。彼女たちの顔には、写真だけは何があっても撮られるわけにはいかない、という強い意志が表れていた。
その時点で、僕はようやく気が付いた。彼女たちは売春婦なのだ。だからこそ濃い化粧を施し、ケバい衣装を着て、路上に立っているのだ。もっと早くに気が付いてもよさそうなものだったが、まだ夕方の4時前という時間に、何人もの娼婦が路上に立って客引きをしているなんて、思いもよらないことだったのだ。
僕はカメラをバッグにしまって、「写真は撮らないよ」という意志を示してから、売春婦の女の子たちに話し掛けてみた。年を尋ねると、どの子からも「19歳」か「20歳」という答えが返ってきた。しかし、これは嘘くさかった。明らかに15、6歳だろうという子もいたし、どう見ても30近い女もいた。「実際の年齢に関係なく、娼婦は20歳なのだ」という決まりや共通認識のようなものがあるのかもしれない。
年齢は幅広かったが、化粧のトーンはどの子も同じだった。濃く太く塗られた口紅、上下が違う色のアイシャドー、卵の殻のように分厚いファンデーション、茶色くカラーリングした前髪。しかし正直に言って、その化粧は彼女たちを美しく見せる役には立っていなかった。もともと美人揃いというわけではなく、ごく普通の顔立ちの女の子なのだが、それを無理に飾り立てようといろんなものを過剰に塗りたくった結果、サーカスのピエロみたいな非日常的で不自然な顔に仕上がっているのである。
この厚化粧が意味しているのは、自分たちが「普通の女」ではなく、売春婦であるということのアピールなのだろう。「娼婦はみんな20歳」なのと同じ理屈で、「娼婦はみんな厚化粧」と決まっているのだ。そういうレッテル貼りをされることによって、彼女たちはこの町の片隅でアウトサイダーとして存在することを許されている。僕の目にはそのように映った。
それにしても、バングラデシュの田舎町という保守的な土地で、まだ日の高いうちから売春婦たちが路上に出ているのは意外だった。彼女たちの化粧が不自然に見えるのも、きっと昼の強い日差しのせいでもあるのだろう。夜の暗がりでは、厚化粧すぎるぐらいの方が見栄えがするのかもしれない。
諦めない男
売春婦たちに別れを告げて、宿へ引き返そうと歩き始めたとき、不意に後ろから呼び止められた。振り返ると、背の低い男が立っていた。半袖のカッターシャツを着ていたが、左腕は肘から先がなかった。
「ボス! ボス! 女は買わないのかい? 今の時間なら安くしておくぜ」
片腕の男はそんなことを言った。彼の英語は単語を並べただけで、文法も発音もひどかったが、売春宿の近くで交わされる会話がそれほど複雑なはずはなかった。
「ノー。女は買わないんだ」
僕は素っ気ない態度で答えると、再び歩き始めた。しかし彼は簡単には諦めなかった。
「ボス! ボス! 女は買わないのか?」
同じセリフを繰り返しながら、男は僕の後ろにくっついてきた。最初は適当に相手をしていたのだが、いっこうに諦める気配がないので、彼の呼びかけを無視して歩調を速めることにした。
それでも男は諦めなかった。5分経ち、10分経っても、まだ「ボス! ボス!」と言い続けている。引き離されそうになったら小走りで着いてくる。まるで金魚の糞のように。
「さっきから女は要らないって言っているだろう? もう帰れよ!」
僕は足を止めて怒鳴った。それでも彼はひるまなかった。
「ボス! それじゃ100タカくれよ」
そう言って右手を出した。その表情には卑屈さはなく、当然の要求をしているという感じだった。
「どうして?」
「俺、ボスのボディーガード。だから100タカくれ」
わけがわからなかった。自分で勝手に着いてきただけじゃないか。それなのにボディーガード代をよこせなんて、厚かましいにもほどがある。
「いいから帰れよ!」
僕は再び怒鳴って歩き始めた。それでも彼は諦めなかった。ひたすら僕の後をつけてくる。その無神経さとタフさに、僕は次第に恐れを抱くようになっていた。いくら怒鳴っても、無視しても、表情を変えても、いっこうに堪える様子がない。終始無表情で、疲れを知らない。一番厄介なタイプだった。
茶屋に逃げ込んでも効果がなかったので、走って逃げることにした。男は僕よりもずっと背が低いので、たぶん追いつくことはできないだろうと踏んだのだが、予想通り彼は追おうともしなかった。
それからしばらく町の中をぐるぐると歩き回り、あの男もさすがに諦めただろうという頃合いを見計らって宿に戻った。しかし宿のロビーには片腕の男が座っていた。しっかりと待ち伏せしていたのである。やれやれ。
「ボス! 100タカくれ」
と彼は言った。その無表情にますます磨きがかかっているように見えた。
彼の待ち伏せは、ある程度予想していたことだったので、それほど驚かなかった。この土地の人間なら、外国人旅行者が泊まっていそうな宿(その数はとても少ない)を探すことぐらい造作もないことだろうから。
腹立たしかったのは、宿の従業員の態度だった。客が妙な男につきまとわれて迷惑しているのに、追い払おうともしないのである。
結局、片腕の男は僕の部屋の前まで着いてきた。はっきり言って不気味だった。こいつの辞書には「ボス」と「ネバー・ギブアップ」とだけ書かれているんじゃないのか?
僕が部屋の鍵を開けると、男も当然のように中に入ろうとしたが、僕は彼の肩を押さえつけてそれを阻止した。そして扉をぴしゃっと閉めると、内側からしっかりと鍵をかけた。
それでも、しばらくは「ボス!」「ボス!」という声が続いた。力のないノックも何度かあった。しかし5分もすると静かになった。やっと諦めたようだった。
僕はバスルームで水シャワーを浴び、薄汚れたベッドに横になって、二時間ほど昼寝をした。片腕の男との不毛な追いかけっこによって、いつも以上に疲労していたのだ。
目を覚ますと、窓の外はすっかり暗くなっていた。枕元に置いた時計は午後8時を指していた。そろそろ夕食を食べに出ようか。そう思って扉を開けた。すると片腕の男がぬっと姿を現した。彼は扉の前でじっと僕を待ち構えていたのだ。
「ボス」と男は言った。常に無表情だった顔が、にやりと笑った気がした。そして右腕をすっと伸ばした。
僕は反射的に男の胸を突き飛ばし、そのまま扉を閉めて鍵をかけた。冷や汗がどっと吹き出した。
あいつはいったい何なんだ。何の確信があって、一人の人間を何時間も待ち続けていられるのだ。それを考えると、不気味さを通り越して、恐怖すら感じた。
彼を一時的に追い払うことはそれほど難しくないだろう。体も小さいし、片腕でもある。しかし問題は彼が絶対に諦めないということと、僕を追い続ける理由がよくわからないということだった。映画「エイリアン」に出てくる謎の生命体のように、相手にはこちらの理屈がまるで通用しないのだ。
結局、夜が明けるまで、僕は部屋の外に一歩も出なかった。空腹は我慢するしかなかった。そして朝になると荷物をまとめて、このいまいましい町を後にした。
片腕の男はどこにもいなかった。さすがに夜を徹して待ち続ける気力はなかったのだろう。しかし、長距離バスに乗るまでのあいだ、突然背後から「ボス!」と呼びかけられるのではないかという不安が消えることはなかった。