0706「実は今日もこのトリックを使って、ある人から少し金を取ってやろうと思っているんだ」
 ミスターJは僕の疑問をかわすように早口で話し始めた。

「その相手はブルネイ人のオカマなんだ。このオカマがひどい奴でね、金持ちのくせにケチときてる。最悪だよ。君も知ってるだろう、ブルネイは石油が出るからフィリピンとは違って金持ちの国なんだ。彼は昨日、私が紹介したカジノで3万ドルも勝ったんだ。私はその10%をコミッションとしてもらう約束だった。しかしオカマは約束を守らなかった。5%しか渡さないんだ」とミスターJは悔しそうに頭を振る。
「私はなんとかしてオカマに仕返しをしたい。奴が払わなかった金を払わせたいんだ。それには君の協力が必要なんだ。もちろん儲けの半分は君のものだ。奴は間もなくこの部屋にやってくる。ここに100ドルある。これはチップ代として君に渡す。いいね、さっき私が言ったようにやれば絶対に負けない」

 彼が言い終わらないうちに、ドアを軽くノックする音が聞こえた。サニーがドアを開けると、スーツ姿の男が笑みを浮かべて入ってきた。
「こちらはブルネイから来られた、ミスター・アンド・ミス・ルイ」
 ミスターJは一流のマジシャンを紹介するような芝居じみた口調で言った。ミスター・アンド・ミス・ルイ氏は極端に柔らかな物腰で、僕に握手を求めた。ルイ氏は口元に笑みを浮かべたまま、足元から頭のてっぺんまでゆっくりと僕を眺めてから、
「あら、いい男じゃない」と小声で言って、にっこりと微笑んだ。
 僕は何と答えていいかわからなかったので(ありがとう、とでも言えばよかったんだろうか?)黙っていた。

 彼は40過ぎの背の低い男で、肌はフィリピン人の二人よりも黒く、小太りだった。一見すると普通の中年男のようにも見えるのだが、薄く口紅を引いているところや、わざとらしい笑い方や、口元を隠す右手の小指がピンと立っているところなどは、オカマそのものだった。
 身なりは金持ちそうだった。高そうな黒のスーツを着こなし、金縁の華奢な眼鏡をかけ、首から金のネックレスを覗かせ、腕にはロレックスを光らせていた。左耳のピアスも金色に光っていた。上から下まで成金趣味の典型みたいなその服装は、小汚い雑居ビルの一室には全く似つかわしくないものだったが、本人は全く気にしていない様子だった。

 彼はブルネイの金持ちのオカマだ、と言われれば、まぁそうなんだろうと思うだろう。でも彼が本当はオマーンの喜劇俳優だったとしても、スリランカの宝石商だったとしても、僕には見分けがつかなかっただろう。残念ながら、僕のブルネイ人に関する予備知識は限りなくゼロに近い。

 イカサマトランプの話を始めたときから、この得体の知れないフィリピン人(かどうかも怪しいのだが)達が、何かヤバイことに僕を巻き込もうとしている雰囲気は感じていた。でもたとえ「イカサマに協力しろ」と言われたとしても、カジノに行かなければいいだけだし、いざとなれば逃げ出せばいいだろうと、わりに気楽に考えていた。
 ところが、ブルネイのオカマが突然登場したことで、事態は急速に悪い方向に向かい始めていた。それでも、この先この芝居がかった3人が何を仕掛けてくるのか、最後まで見届けてみたいという好奇心も、まだ消えてはいなかった。

 

積み上げられた札束

0632「さぁ始めましょう。今のアタシはツイてるのよ」
 オカマは僕の正面に座ると、ディーラーのミスターJにゲームを始めるよう促した。僕は部屋から出るタイミングをすっかり失っていた。そして、いつの間にかこの即席カジノ場のプレイヤーにされていた。

 ゲームはもちろん僕の連戦連勝だった。ミスターJの言う通り、彼の右手を見ていれば、負けるはずがないのだ。オカマがこのトリックとも呼べない単純なイカサマを見抜けないのは、どう考えてもおかしかったが、それでも彼は終始上機嫌だった。

「ジャパニーズ・ボーイは、今日はラッキー・デーね。アタシも昨日はラッキー・デーだったけど、今日はだめみたいだわ・・・」
 金持ちのアタシにとっては、この程度の負けは痛くも痒くもないのよ、そういう素振りなのだ。
 4,5回勝ち続けた頃には、僕の100ドル分のチップは1000ドル以上にまで膨らんでいた。それでも、僕には大儲けをしたなんていう感覚はほとんどなかった。そもそも最初の掛け金の100ドルにしても、ミスターJが勝手に渡したもので、僕自身は1ドルも払っていないわけだから。

「これがラストゲームだ。二人ともいいかい?」
 ミスターJが最初の筋書き通りに言った。
「最後は負けられないわ」
 オカマはいつになく真剣な表情で言った。
 ラストゲームが始まり、僕とオカマは2枚ずつカードを引いた。この時点で僕のカードは4+6=10。ミスターJの右手は、オカマのカードが10+9=19であることを教えていた。
「アタシはもう要らない」とオカマは言った。
 オカマが自分の手札を満足そうに見ている隙に、ミスターJは次のカードを少しめくって僕に見せた。カードはクイーン。絵札は全て10として数えられるから、僕の手札の合計は20になる。つまり、次のカードを引けば、ラストゲームも僕のものになる。

0605 僕が最後のカードを引き終わってチップを乗せると、オカマは手持ちのチップを全部上積みした。
「これが最後の勝負ですものね。今までのツキはジャパニーズ・ボーイにあったけれど、今回はアタシ自信があるの」
 オカマが傍に置いていたスーツケースを開けたのはそのときだった。
「ここに6万USドルあるわ。アタシはこの6万ドルを全部この勝負に賭けるわ」

 6万ドル?700万円?
 僕は目の前に積み上げられた札束を呆然と眺めた。何度計算しても、それは700万円もの大金だった。僕は自分の心臓が高鳴る音を聞き、わきの下を冷や汗が流れるのを感じた。口の中がカラカラに渇いた。この狭い部屋の空気が急に重苦しく感じられ、目の前の出来事が現実感を失って見えた。まるで彼ら三人が演じている芝居を、客席で見ているような気分だった。

「さぁどうするの?ジャパニーズ・ボーイ」
 オカマのねっとりとした声で、僕は我に返った。落ち着いて頭を働かせるんだ。そう自分自身に言い聞かせた。とにかく冷静になるんだ。
 僕は目の前に並べられた札束のひとつを手に取った。そして伝票の束を繰るみたいに、出来る限りクールに中身を確認するふりをした。札束は思っていたよりもずっしりと重かった。ピン札ではなく使い込まれて汚れた100ドル札が、輪ゴムで100枚ごとの束に止めてあった。札束のリアルな重みを感じることで、僕は少しずつ冷静さを取り戻していった。

 どう考えたって無茶苦茶な話だ。どうしてこのオカマは6万ドルもの大金を、治安がいいとは言えない場所にキャッシュで持ち歩いているんだ? どうしてオカマはわざわざプライベートの違法なカジノに、のこのこやってきたりするんだ? どうしてさっき出会ったばかりの日本人がこんなところに座って、6万ドルに乗るか反るかの勝負を迫られているんだ?
 答えはひとつだった。そう、これは全部彼らが周到に仕組んだ芝居だったのだ。僕はようやくそのことに気付いた。

0712「僕はこの勝負を降りる」
 そう言うと、部屋の中に嫌な沈黙が流れた。
「君のチップは全てルイに渡ることになるんだよ。それでもいいのか?」とミスターJは言った。
「イエス」と僕は言った。構うもんか。どうせ元々僕の金じゃないんだ。

 オカマは表情を変えずに自分のカードを見ている。慌てたのはミスターJとサニーだった。
「金のことなら心配するな。私が貸してやるよ。君は絶対に勝つ。私を信じろ」
 ミスターJは僕にそう耳打ちした。サニーも一緒になって、「お前が勝つ」と何度も繰り返した。今更降りることは許さない、というわけだ。
 その後、ミスターJはご丁寧にも、オカマがあさっての方向を向いて鼻歌を歌っている間に、伏せてあるオカマの手札をめくって僕に見せた。カードの合計は確かに19だった。ミスターJは《やっぱり君の勝ちだろう?》と目配せをしたが、そのわざとらしい演技は、僕の疑いを確信に変えただけだった。

 やはりこの3人はグルなのだ。イカサマで儲けさせてやるというオイシイ話をちらつかせておいて、逆にこっちの金を巻き上げようという魂胆なのだろう。
 彼らが次にどういう手を使うのかはわからない。でもとにかく、最後にカードをオープンしたときは、オカマの手札か、あるいは僕の手札が入れ替わっていて、僕が6万ドル負けるという筋書きになっているはずだ。

「僕は降りる。6万ドルなんて金は持っていない」
 僕が重ねて言うと、ミスターJは呆れたよう両手を大きく広げた。
「ミスター・ルイ。このジャパニーズ・ボーイは、金を持っていないから勝負は続けられないと言っている。そこで我々が彼に金を貸してやろうと思う。もちろん負ければ我々が6万ドルを支払う。それは約束する」
「オーケー、いいわよ。アタシとしては、誰が払おうが関係ないですもの。でもひとつ条件があるわ。アタシは6万ドルをここに持ってきている。でもあなた達は持っていない。それじゃカードをオープンするわけにはいかないわ。あなた達が6万ドルをここに持ってくるまでは、アタシはここを動きませんからね」
 もっともな主張だ。お金の算段になると、この間の抜けたオカマも、急におりこうさんに変身するのである。

「わかった。じゃあ私とジャパニーズ・ボーイとサニーの3人で金の相談をするから、少しの間席を外してくれないか」とミスターJは言った。
 オカマはミスターJの用意した封筒に、自分のカードを入れて糊付けし、封をした場所にサインを書いた。将棋の封じ手みたいなものである。僕のカードも同じように封をし、ミスターJはふたつの封筒を自分のスーツケースに入れて鍵をかけた。鍵はオカマが預かり、スーツケースは部屋の隅に置かれた。何から何まで用意のいい連中なのだ。
「このスーツケースの鍵はひとつしかない。だからカードがすり替わる心配はない」
 ミスターJがそう言うと、オカマは部屋を出て行った。

 

1万ドルなんて持ってるわけがない

0647「言っただろう、ブルネイのオカマは金持ちだがケチなんだ。6万ドルをこの場に用意しなければ、奴は絶対にカードをオープンしない。でも安心しろ。金は我々が用意する。サニー、お前はいくら用意できる?」
 サニーとミスターJは手帳と電卓を出してきて、なにやら計算を始めた。
「今すぐ集められるとなると、せいぜい1万ドルだね」
「そうか。私も友達を当たってみるけど、3万ドルが精一杯だろうな。二人合わせて4万ドル。あと2万ドル足りないか・・・」

 ミスターJは運転資金をやり繰りする町工場の社長のような深刻そうな顔つきで、手帳と電卓を交互に見比べていた。
「どうだろう、君はいくらか用意できるかい? 1万ドルでもいいんだが・・・」
「1万ドルなんて持ってるわけありませんよ」
 僕は出来るだけ素っ気なく言った。持ってるわけがない。

「カードは持っていないのか? 日本人はみんなカードを持っているじゃないか」
 よくご存知で、と言ってやろうかと思ったがやめておいた。とりあえず、この場所から無事に逃げ出す方法を考えるのが先決なのだ。
 ドアの前にはミスターJが座っていて、サニーは僕の横にぴったりとくっついている。おそらくドアを開ければ、オカマが待ち構えているだろう。3対1というのは、やはり分が悪い。彼らの他にも仲間がいるのかもしれない。この部屋を無事に出ることが出来れば、後は何とかなりそうなのだが。

「クレジットカードならありますよ。でも今は持っていない。宿に置いてあるんです」
「それでいくら引き出せるんだ?」
「そうだなぁ、5000ドルぐらいなら、何とか」
「オーケー、わかったよ。それじゃあ、私とサニーと君の3人で、今から君の部屋にカードを取りに行こうじゃないか。その間、オカマには待ってもらう。なに、大丈夫だ。君にはすぐに大金が転がり込む。それを3人で分けるんだ。私はその金で日本の中古車を買う。エブリシング・オーケーだ」
 何はともあれ、これで外に出る口実を作ることには成功した。もちろん、僕は宿の部屋にクレジットカードを置いて出かけたりしない。隠しポケットの中に、ちゃんと入っているのだ。

 

0749 僕と二人のフィリピン人は、僕を真ん中に挟み込む格好で雑居ビルの玄関を出た。そして、暗く汚い路地を歩いた。華やかな表通りとは違って、この辺りは人通りも少なく、どことなく胡散臭い空気が漂っていた。活気ある経済都市香港の裏側の顔。そんな雰囲気だった。
 サニーは僕の横にぴったりと張り付き、ミスターJは一瞬たりとも僕から目を離さなかった。やはり彼らはプロの詐欺師で、この手口を繰り返してきたに違いない。
「もしよかったら、香港の女を紹介してやろうか?」
 ミスターJが僕の気を逸らすように言ったが、僕は何も答えなかった。僕の頭の中は、どうやって彼らを振り切って逃げることができるか、ということで一杯だったのだ。

 僕は何気ない素振りで、二人との距離を少しずつ開けていった。盗塁で言えばリードだ。メインストリートであるネイザン・ロードまで20mほどのところで、うまい具合に右折したタクシーが僕らの正面に近づいてきた。
 今だ!
 フィリピン人の二人はタクシーを左に避け、僕は右に避けた。そして僕はそのまま全力疾走で路地を走り抜けた。後ろの二人が何か叫んだような気がした。いや、叫ばなかったのかもしれない。
 どちらにしても、そのときの僕に振り返る余裕などあるはずもなく、ただ走ることだけに全神経を集中していた。