若者は砂漠をじっと見つめていた。見渡す限り砂と石ころと駱駝草しかない。動いているものと言えば、小さな竜巻がダンスを踊るように砂漠を渡っていく様か、地平線の先で揺らめく陽炎ぐらいだ。何かが起こりそうな気配はない。しかし、彼は我慢強く砂漠を睨み続けていた。それが彼に与えられた仕事だったからだ。
若者は国境警備の任務に当たる兵士だった。イランの男子には二年間の兵役の義務が課せられていて、彼も高校卒業後に陸軍に入隊した。いくらかお金を積めば兵役を逃れることもできるのだが、彼の家にはそんな余裕はなかった。そして幸か不幸か、彼は入隊後まもなく、この退屈極まりない辺境の部隊に配属されたのだった。
「動いているものが見えたら、すぐに銃を撃て」
若者は上官から、そう命令されていた。だから彼は自動小銃を片時も離さなかった。もし任務を怠っていることがばれたら、ただでは済まされない。と言っても、上官に勤務態度がばれる可能性はないに等しかった。何しろ彼の目の届く範囲にいる人間は、彼一人きりなのだ。
しかし若者は根が真面目だったから、誰も見ていなくても与えられた任務を遂行しようと心がけていた。要するにこれは自分の忍耐を鍛えるゲームなんだ、と彼は考えた。俺は何日もここに座って砂漠を睨んでいる。これからも睨み続ける。その間に、上官の言うようなゲリラや密輸業者(たいていの場合この両者の判別は難しい)が、俺が見張っているテリトリーに侵入してくる可能性は低いだろう。でも、ここで俺が手を抜いたら、奴らはきっとその隙をついてやってくる。これは俺を試すゲームなんだ。それに、と彼は思う。上官が見ていなくても、アッラーはどこからでも俺のことを見ておられるに違いない。
若者は渇いた喉に水筒の水をゆっくりと流し込んだ。生温い水が食道を伝わっていく。ひどい暑さだった。水が尽きてしまえば、丸一日持ちこたえるのがやっとだろう。このあたりには一年を通して雨はほとんど降らないのだ。しかし植物が全く育たないわけではない。地下水脈があるのか、泉が沸いているのか、不毛なはずの砂漠の所々には乾燥に強い植物が群生している場所があった。
砂漠の植物は、彼にとって尊敬の対象だった。彼らは実に粘り強く、少ない水で生き延びている。乾燥に耐え、暑さに耐え、風や砂にも耐えて生きている。俺もこういうふうに強く生きられたら、と若者は思いかけて首を振る。いいや、俺にはできっこない。本当は砂漠なんて大嫌いなんだ。できることなら、ここから一刻も早く逃げ出してしまいたい。
彼の父親は腕のいい金属細工職人である。彼は6人きょうだいの長男で、下には4人の妹と一人の弟がいる。彼はいつも賑やかな家の様子を、少しだけ思い出す。兵役を終えて故郷の町へ帰ったら、父親の仕事を手伝うことになるだろう。
ゆらゆらと不規則に揺らめく陽炎の先に、彼は何頭かのラクダの群れを認める。やれやれまたラクダだ、と彼は思う。だが、ここで油断してはいけない。アフガニスタンの密輸業者は、調教したラクダの胃袋に麻薬を隠して、イランに運び込む連中もいるのだ。
アフガニスタンのタリバン政権が、麻薬を国家収入の重要な柱にしているのは周知の事実で、それはイランを通り、トルコのクルド人地区や旧ソ連のアゼルバイジャンを通って、ヨーロッパに流れていく。麻薬がクルド人達が支配する山に入ってしまえば、イラン軍も手は出せない。山岳民族のクルド人は山を知り尽くしている。険しい山道も、鹿並みの早さで駆け上ることができるという。
もちろん、イラン政府は麻薬の流入を何とくい止めようとして、国境地帯に網を張っている。だが、なにしろ国土が広いから、網の目を巧みにくぐり抜ける業者が後を絶たない。だから、こうやって若い兵士を人海戦術的に使って、辺境の警備に当たらせているのだ。
しかし、陽炎の向こうのラクダ達は、まばらに生えている固い草を食べ終えると、またどこかへ去ってしまった。麻薬とはなんの関わり合いもない、普通のラクダなのだろう。若者はほっとすると同時に、少し寂しくもなった。また彼はひとりぼっちになってしまった。
上官が交代の兵士を連れてジープで迎えにやってくるのは、日没前と決まっていた。しかし今日に限って、太陽が砂漠の中に没してしまってからも、ジープは現れなかった。
彼は慌てた。上官は時間にルーズな人ではない。いつも5分の狂いもなく、ジープは地平線の向こうから砂煙を上げてやってくるのだ。ということは、何か不測の事態が起こったと言うことなのか。あるいはジープが故障してしまったのだろうか。それとも俺のいる場所を見失ってしまったのだろうか。
彼はしばらくあれこれと考えを巡らせてみたが、結論は出なかった。はっきりしているのは、砂漠が光の領域から闇の領域の変わりつつあることだけだった。夜の砂漠の恐ろしさは、彼もよく知っていた。蒼い闇。その中ではっきりと見えるのは、懐中電灯の光が届くごくわずかの範囲に限られる。
俺は見捨てられたのかもしれない、と彼は考える。理由はわからないが、上官は今晩は迎えに来ないのかもしれない。ひょっとすると、明日もやってこないかもしれない。彼は野宿を覚悟する。まだ飲み水もあるから一晩過ごせないことはない。昼とは反対に夜の砂漠は相当に冷え込むが、死ぬほどのことではない。しかし、明日になっても迎えが来なければ、彼は歩いて基地まで帰らなくてはいけない。基地はここから100km以上離れているのだ。
でも先のことはそのときになって考えればいい。今は上官のジープを見失わないように、見張っているべきなのだ。若者はそう気持ちを切り替えて、昼間と同様に、いやそれ以上の集中力で、地平線に目を凝らした。恐ろしいほどの静寂の中で、エンジン音を聞き漏らさないように耳をそばだてた。しかし、いくら待ってもジープはやってこなかった。
彼は胸のポケットから煙草を取り出して、ライターで火をつけた。一本口にくわえると、箱の中の残りは一本だけになってしまった。やれやれ、煙草もない、迎えも来ない。今日はなんていう日だ。彼はそう愚痴ってから、深く煙を吸い込んだ。
「俺にも一本くれないか?」
彼の耳元の誰かが言った。若者の心臓は一瞬にして凍りついた。強い力でわし掴みにされたみたいに。いるはずのない誰かが、隣にいる。いや、「何か」が隣にいる。その気配をはっきりと肩に感じる。だが、顔をそちらに向けることはできない。からだが言うことを聞かない。
「おい、俺にも煙草を・・」
二度目の声を聞いて、若者は弾かれたように座っていた岩から飛び降りて、走り出した。何か叫び声を上げたような気もするが、それは彼の意志とは無関係に発せられたものだった。2,3歩行ったところで、彼は石につまづいて、持っていた懐中電灯を落としてしまったが、拾っている余裕はなかった。恐怖と混乱とが、彼の足を勝手に前へ前へと進ませていた。とにかくここを離れなければ。彼はそれだけを思って走った。
背後の「何か」は彼の後を追ってこなかった。足音も聞こえないし、気配も感じない。俺の勘違いだったのか、と若者は思った。砂漠の真ん中で隣に誰かが座っているなんてこと、あるわけがないじゃないか。心臓はまだ大きな音を立てて鳴っていたが、彼はそれを自覚できるほどの冷静さを取り戻していた。
この目で確かめるんだ。彼は思いきって後ろを振り返った。そこに何もいないことを願って。しかし彼の願いはあっけなく裏切られた。そこにはやはり「何か」がいた。その「何か」は彼がさっきまで座っていた岩の上にいて、間違いなくこちらを見つめていた。
若者は今度は一歩も動かなかった。「何か」から視線を外すこともできなかった。彼の手にはすでに懐中電灯はなく、星の光だけが唯一の明かりだったが、「何か」の姿は不自然なほど鮮明だった。
若者は一時的な放心状態から回復していた。そして冷静に「何か」を観察していた。「何か」はキラキラと光っていた。星の光を反射するだけでは、あんなに光らない。奴自身が光を放っているのだ。鱗だ。奴の体は魚のような鱗に覆われていて、その一枚一枚が違う色の光を放っているのだ。それは以前見たイスファハンの町の夜景のように美しかった。
「ジェンだ」
若者は口に出して言った。昔、母親から何度か聞かされたことがある。夜の砂漠にはジェンが出るんだよ。それは恐ろしい幽霊なんだ。魚の体と獣の足を持つ恐ろしい怪物だ。若者はそんな馬鹿な話があるもんか、と子供心に思っていた。魚の体と獣の足を持った怪物が、どうして砂漠に出てこなくちゃいけないんだ。砂漠には魚なんていないじゃないか。
しかし彼の目の前に立っているのは、ジェン以外の何者でもなかった。その二本の足の先を見ると、大きな蹄がついている。「いいかい、よくお聞き。ジェンが出るから夜の砂漠に行ってはいけないよ」と彼の母親は言った。しかしジェンに出会った人間がどうなるのかまでは、母親は教えてくれなかった。
「お母さん」と彼は心の中で叫ぶ。砂漠でジェンに出会ったらどうすればいいんです?
ジェンは岩の上に立って若者を見下ろしていたが、彼がジェンの名を口にすると同時に、彼の方へ近づいてきた。ジェンの動きはスローモーションの映像を見ているようにゆっくりとしていた。二つの蹄は、足音を全くたてずに砂漠を歩くことができた。息遣いも聞こえなかった。ただ無音のまま光を放ちながら、ジェンは若者に近づいていった。鱗の光は、いっそう輝きを増していった。
若者はすでに逃げようという意志を奪われていた。逃げるといったって、この広い砂漠のどこに逃げたらいいんだ。俺とジェンはここにたった二人で向かい合っている。誰も助けてはくれない。
若者は静かにその場にしゃがみ込んだ。恐怖は全く感じていなかった。その代わり若者はジェンの美しさに心を奪われていた。その体は宝石をちりばめたように光り輝いていた。ルビー、エメラルド、サファイア・・・それよりももっと美しい色。その鱗はどんな色もどんな光も作り出せるのだ。
若者にとってひとつだけ心残りだったのは、ジェンの顔を最後まで見ることができなかったことだ。ジェンがどれだけ近づいてきても、どれだけ鱗の輝きが増しても、どういうわけか顔の部分だけは、黒い影になっているのだ。
ジェンが一歩近づくごとに、若者のからだから力が抜けていった。彼は砂漠に身を横たえ、頭上の星々に目をやった。やがて冷たい気配が近づいてくる。ジェンはすぐ隣にいて、俺の命を吸い取ろうとしている。彼にはそのことがわかっていたが、どうすることもできなかった。そしてゆっくりと目を閉じた。
あれは本物のジェンだった。間違いない。
「それで、君はどうなったんだい?」
彼の長い話が終わったとき、僕はもちろんそう訊ねた。
「僕は生きている。ごらんの通り」
彼は両手を広げた。
「僕が目を覚ましたとき、上官は僕の頬を何度も叩いていた。あまりに強く叩くものだから、その後しばらく腫れ上がったぐらいさ。『ジープが故障してしまったんだ』と上官は言った。もう東の空には朝日が昇っていたよ。もちろん、僕は『ジェンを見ました』とは報告しなかった。そんなこと言っても、信用してもらえるわけはないからね」
「すべては幻だった?」
「いや、僕が見たのは本物のジェンだ。これだけははっきりと言える。ジェンは何かの理由で僕を殺さなかった。今でも僕はそう信じているよ」
パキスタンとの国境に隣接した町ザヘーダーンから、バムという町に向かうバスの中で、僕らは話をしていた。彼の話はとても面白かった。ただの怪談話に終わらないような、真に迫るものがあった。それは、僕らの目の前にも、彼が取り残されたような不毛の砂漠が広がっていたからなのかもしれない。
「君の国にもゴーストはいるんだろう? 君は見たことがあるかい?」と彼は僕に訊ねた。「一度もないよ」と僕は答えた。
「そうか。それはラッキーだな。あんなもの、出会わないに越したことはない。誰にも信じてもらえない。嘘つき扱いされるだけだ」
「でも君は本当に見たんだろう?」
「ああ、本当だ。できることなら、もう一度ジェンに会って確かめてみたいとも思うよ。でもそうなったら、今度こそジェンは僕を生かしておいてはくれないだろうけど」
イランの国土は広く、その大半は砂漠である。砂漠はひどく単調な世界だったが、そこには僕を引きつけるものがあった。何時間見ていても飽きることがなかった。
砂漠は21世紀になっても人を寄せ付けない厳しい世界だった。ひょっとしたら魚の鱗を持ち、獣の足をした怪物だっているかもしれない。そんな想像力を働かせる余地が、砂漠にはまだ残されていた。