4267 次の朝は雨降りだった。空は鉛色の分厚い雲に覆われていて、冷たい雨がアンズの木々を濡らしていた。アンズの花の多くは昨日吹き荒れた風で散ってしまい、宿の中庭の階段に吹き溜まっていた。

 雨の降りしきるフンザの朝は、昨日とはうって変わって陰鬱な雰囲気だった。アンズの木陰に集まって楽しそうにお茶飲み話をしていた人々も、今朝は軒先にしゃがみ込んで、寒そうに肩をすぼめていた。串刺しのヤクの肉を売る屋台の親父も、今日は姿が見えなかった。

 この日のうちにフンザを離れよう。僕はそう決めると、すぐに荷造りに取りかかった。いつものように、荷造りは5分で終わった。
「あんたがここに来たのは二日前じゃないか?」
 僕がチェックアウトすると言うと、宿の主人は大袈裟に驚いてみせた。フンザの旅行シーズンはまだ始まったばかりなので、客の入りは芳しくないらしく、主人としても何とか引き留めたいのだ。

「この先、何か予定があるのかい? ないんだったら、もっといるべきさ。明日になれば、きっと晴れるから」
「でも、ここの天気は『神のみぞ知る』なんだろう?」
 僕は昨日出会った老人の台詞を引用した。宿の主人は、まぁそうだがなと頷いた。
「やっぱり今日出発するよ。ほら、もう荷物だって背負ってるから」

 明日になれば、天気は回復するかもしれない。でも、晴れ渡る桃源郷の風景を再び目にすることになったら、ここを去る決心がぐらつくに違いない。だから僕は暗く冷たいフンザを後にすることを選んだのだった。

 

4243 フンザからラワールピンディまでの道のりは、三日前に通ったルートと全く同じだった。月面を思わせる不毛の大地。ひとつ間違えれば谷底へ真っ逆様の道路。狭苦しいバス。スピーカーから途切れることのなく聞こえてくる音楽。そして度重なるパンク。そんな中でも、なんとか眠れるようになったのは、ひとえに「慣れ」のお陰だろう。

「モーニング! ウェイクアップ! ウェイクアップ!」
 車掌の男に肩を揺すぶられて目を覚ましたとき、バスはハイウェーの真ん中に止まっていた。時計は朝の6時を指している。まだラワールピンディに到着する時間ではない。それなのに車掌は、「ここでバスを降りろ」と言うのである。

「ここはどこなんだ? どうしてここで降りるんだ?」
 そう訊ねても、うまく英語の話せない車掌の答えは要領を得なかった。とにかくバスが止まったから降りろ、と繰り返すばかりなのだ。わけのわからないうちに、僕はバスを降ろされ、屋根の上に積んであるバックパックを受け取った。

「パンクのしすぎでスペアタイヤがなくなってしまったのさ」と英語の話せる男が僕に説明してくれた。「ギルギットから5,6回パンクしたらしいね。だから、このバスはここから動けない。でも心配しなくてもいい。俺達はハイウェーを走ってくるバスを捕まえて、ラワールピンディーまで乗せてもらうから。もちろん、金はバス会社が払う」
「こういうことは、よくあるんですか?」と僕は聞いた。
「・・・まぁ、いつもではないけど、たまにはあるね」男は苦笑いを浮かべて言った。

 男の言った通り、車掌と運転手はハイウェーを走ってくるバスやタウンエースに手を振って止まってもらい、代わりに乗客を運んでもらう交渉を始めた。この辺の手際の良さを見ると、こういったトラブルは頻繁に起きているのだろう。それにしても、もっとパンクに強いタイヤを用意できないのだろうか。

 とにかく僕らはやってきたミニバンに押し込まれて、ラワールピンディまでの残りの道のりを行くことになった。ラワールピンディのバスターミナルに到着したのは朝の8時。そこからすぐにペシャワール行きのバスに乗り換え、ペシャワールに着いたのは正午前のことだった。

 ペシャワールでは、旧市街の入り口にある安ホテルに部屋を取った。ドアを開けると防虫剤の強い匂いが鼻を突き、洗面台には大きな蜂の死骸が転がっているという部屋(おそらく掃除するは月に一度ぐらいなのだろう)だったが、一泊100ルピー(200円)という値段では文句も言えなかった。

 僕は部屋に入って荷物を置くと、すぐに虫食い穴だらけのシーツの上に寝転がり、シミだらけの枕の上に頭を乗っけて目を閉じた。フンザから25時間。バスを合計5台も乗り継いでの大移動の間、ずっと窮屈な体勢を迫られていた体中の関節が、切実に眠りを求めていた。どこかのモスクから、昼の礼拝を呼びかけるアザーンの声を聞こえてくる。でもそれを最後まで聞くことなく、僕は深い眠りに落ちていった。

 

シーア派最大の宗教行事・アーシューラー

4434 ペシャワールの町に着いた日は、イスラム教・シーア派最大の宗教行事である「アーシューラー」の最終日だった。
「今日のアーシューラーは大変な騒ぎになる。トラブルに巻き込まれるかもしれないから、あんたみたいな外国人は行かない方がいい」
 そう忠告してくれたのは、ホテルのボーイだった。

「いや、ノープロブレムさ。写真が撮りたいなら、自由に撮ればいい」
 そう言ったのは、街角でお茶をご馳走してくれた薬局の老人だった。いったいどちらの意見を信用すればいいのかわからなかったので、僕は他のパキスタン人にも話を聞いてみることにした。道端で外国人に声を掛けてくる暇そうな男には事欠かないのがパキスタンという国だから(要するにみんな好奇心が強くて親切なのだ)、情報はすぐに集まった。

 彼らの話を総合すると、だいたいこういうことになった。アーシューラーは元々危険なものではない。しかし、パキスタンでは少数派のシーア派の祭りであるから、多数派のスンニ派と衝突する危険性もある。政府はパキスタン各地で今も続くイスラムの異宗派同士の対立が、これをきっかけに暴動に発展することを恐れている。だから武装した警官隊を出して監視しているのだという。

 実際にペシャワールの旧市街に入ってみると、パキスタン政府の懸念が本物であることがわかった。通りという通りには、機関銃で武装した警察官が配置されていた。屋根の上にまで武装警官が立っていて、トランシーバーで頻繁に連絡を取り合っている。放水車や装甲車も何台か出動している。バザールの中の商店も、ほとんどがシャッターを下ろしている。

 

4416 僕はとりあえず様子を窺おうと、旧市街の路地に入った。もし危険な雰囲気があれば、すぐに引き返すつもりだった。路地はすでに大勢の人で溢れかえっていたが、武装警官の厳しい表情とは反対に、行き交う人々の顔はいつものパキスタン人と同じく、陽気なものだった。道を歩くのは例によって男ばかりで、女性や子供は二階や三階の窓からひょこんと顔を出していた。
 この分だと危険はないだろう。そう判断した僕は人の波に乗って路地を進んだ。アーシューラーとはどういうものなのか、まるで知らなかったから、とにかく周りに合わせて行動するしかなかった。

 そうしていると、また暇そうで親切なパキスタン人が声を掛けてきた。ディダールと名乗ったその男は、まだ大学生だというのに立派な口ひげを蓄えていて、僕なんかよりも遙かに風采が良かった。そして上手な英語を話した。

「アーシューラーが危険かどうかですか? 実は一週間ほど前にも、ラホールで大きな衝突が起こって、十人以上死んだらしいんです。だからポリスも警戒しているみたいですね。でも安心してください。アーシューラーは神聖な行事だから、そんな騒ぎにはなりませんよ。アッラーがお許しにならないでしょうから。でも警官は危険ですね。彼らには注意した方がいい」
 僕らがそんなことを話していると、群衆のざわめきが大きくなった。
「もうすぐ行列がやってきます」とディダールは言った。「ほら、歌が聞こえませんか?」

 

4417 彼の言う通り、しばらくすると男達の歌声が響いてきた。もちろん、僕には歌の内容はさっぱりわからないのだが、悲哀のこもった歌声が、「ホセイン」「ホセイン」と大声で繰り返しているのは、何とか聞き取れた。
 ホセインとはシーア派の人々が最も敬愛する、第3代イマーム・ホセインのことである。680年、ホセインとその支持者達は、ウマイヤ朝の打倒を目指して立ち上がったが、「カルバラーの悲劇」と呼ばれる戦いで、一族もろとも惨殺されてしまう。これはシーア派の人々にとって、正義が悪に敗れた悲しむべき出来事で、それから毎年ホセインの殉教した日に、彼の死を悼んで「アーシューラー」を行うようになったのだという。

 アーシューラーの行列の先頭に立つのは一頭の馬だった。頭に冠を載せ、全身を銀モールで飾られた馬である。その後ろを黒いクルタを着た男達が歌いながら歩き、さらに後ろを上半身裸になった10人ほどの男達が興奮した表情で歩いてくる。20代の若者から50を超えた白髪の男まで年齢は様々だが、全員が屈強な肉体の持ち主だ。彼らの胸は赤く腫れている。そして、それぞれの手には尖った金属片のついた鎖が握られている。背中には何かでひっかいたような傷が無数にある。その傷からは、真っ赤な血が流れ出している。

 

4431「さぁ、いよいよ始まりますよ」
 ディダールが興奮気味に僕に告げる。いったい何が始まるんだ、と訊ねる暇もなく、ディダールは僕の手を取って、群衆の中をずんずんと進み始めた。人々は「割り込めはよせ」とかなんとか文句を言ってくるが、ディダールはそんなことお構いなしに突進していく。けっこう強引な性格のようだ。しかしとにかく、彼の突進のお陰で、僕はアーシューラーの男達を間近に見られるところに出ることができた。

 行列は交差点の真ん中にやってくると、自然に歩みを止めた。そして、黒いクルタの男達が群衆を押しのけて、直径15mほどのスペースを作った。裸の男達は、そのスペースに輪を描くように等間隔に並んだ。
「ホセイン! ホセイン! ホセイン!」
 男達の歌声がいっそう力強さを増す。胸に手を当てて、悲しみに満ちた表情で、声を張り上げる。周りの群衆も、彼らの声に呼応するように「ホセイン!」「ホセイン!」と叫び始める。裸の男達はまず、自らの胸を平手で打ち付ける。生半可な強さではなく、思いっきり打つ。バチッ、バチッという革の鞭で地面を叩くような音が響く。
 しばらくすると、男達の胸は真っ赤に紅潮してくる。内出血を起こして赤紫色になっている者もいる。歌声は渦を巻くように大きくなっていく。周囲の空気は異様な熱気と緊張感で、電気を帯びたようにビリビリと震えている。

 

4427 張りつめた緊張感を切り裂くように、最初の鎖が振るわれる。一番年長の白髪の男だ。鎖が空気を切り裂くヒュンという低い音がする。次の瞬間、尖った金属片が男の背中に鋭く突き刺さり、肉をえぐる。しかし彼はその痛みには全く気付いていない様子で、再び大きく振りかぶって背中を打つ。金属片についた男の血が、小さなしぶきとなって地面に落ちる。それを合図にして、10人の男達の鎖が一斉に振るわれる。

 男達は何かにとりつかれたように、一心に鎖を振るい続ける。苦悶の声を上げる者はいない。歯を固く食いしばり、目をかっと見開き、力の限り背中を打つ。苦痛を通り越して恍惚の表情を浮かべる者もいる。背中の傷からとくとくと流れていく赤い血は、彼らの真っ白いズボンに染み込んで、赤黒い模様を描いていく。それでも彼らは手を止めようとはしない。彼らの目はもう現実を見ていない。その目には、1300年前に殉教したイマーム・ホセインの姿が見えているのかもしれない。

 長い間、彼らは休むことなく鎖を振るい続けた。実際は2,30秒ほどのことだったのかもしれないが、僕には20分にも30分にも感じられた。その間、僕は瞬きひとつせずに、文字通りその光景に釘付けになった。彼らは黒服の男達が腕を取って止めに入るまで、気が触れたように鎖を振るい続けた。もはや自分の意志では止められない一種のトランス状態に入っているようだった。中には止めに入る手を振り払って、なおも鎖を振るおうとする強者もいた。身長190cmはあろうかというその大男を止めるためには、4人の男が飛びかからなくてはならなかった。

 

4448 群衆の中には、感極まって涙を流す人が何人もいた。二階の窓から首を出す子供達は、一様に引きつった表情をしていた。女達はとても見ていられない、というふうに目を伏せていた。隣にいるディダールも、胸に右手を当てて、沈痛な表情をしていた。

 血の行列は来たときと同じように、歌いながら去っていった。そしてしばらくすると、違う行列がやってきて同じことを繰り返した。歌を歌い、胸を平手で叩き、鎖を振るって血を流した。それが4,5回繰り返されただろうか。集まっていた群衆が「もう終わりだな」という雰囲気になって、それぞれの家路に就き始めると、僕は思い出したようにふーっと大きくため息をついた。
 自分は何もしていないというのに、僕の脇の下は汗でぐっしょりと濡れ、背中から首にかけての筋肉がガチガチに強ばっていた。頭の中では、まだ「ホセイン ホセイン」という歌声が渦を巻いていた。男達の阿修羅のような形相が、網膜に焼き付いて離れなかった。

「どうでしたか?」とディダールが僕に訊ねた。
「・・・すごいものだね」
 そう答えるのがやっとだった。自分の目で見るまで、アーシューラーはただのセレモニーだと思っていた。予定調和的な祭事のひとつだろうと想像していた。しかし、実際にそこで行われていたのは、激しく厳しい血の儀式だった。そこには肉体を傷つける痛みがあり、それを支える強い祈りがあった。彼らは言葉ではなく、流された血によって自らの信仰心を示そうとしていたのだ。イマーム・ホセインが味わった苦難を、痛みによって追体験していたのだ。

 

4435「あれだけの血が流れても、彼らは平気なの?」
 僕はディダールに訊ねた。
「中には気を失って救急車で運ばれる男もいます。でも、彼らはこの日のために毎日鍛えているから、大丈夫ですよ。少々の血が流れたぐらいで、死にはしません」
 ディダールはそう言って笑ったが、流れていた血は「少々」というような生易しい量ではないように思った。

 毎日体を鍛える男達。それを聞いて、僕はラホールのボディービル・ジムで出会ったマッチョマンのことを思い出した。胸板が厚く、友情に厚く、信仰にも厚い。どうやらパキスタン人というのは、本当に「男臭い」人々のようだ。
「君もアーシューラーに参加してみたい?」と僕はディダールに訊ねた。
「ノー。今の僕にはとても無理ですね。彼らは本物の肉体と、本物の魂を持った人々ですよ」

 アーシューラーが終わると、屋根の上の武装警官達はほっとした表情で撤収をはじめ、シャッターを下ろしていた店も次々と開店準備に取りかかりはじめた。車両の通行を止めていた鉄柵が撤去され、何台ものオートリクシャが砂煙を上げて走り出した。祭りは終わり、いつもの日常が戻ろうとしていた。
 それでも街のあちこちには、男達がほとばしらせていたエネルギーの一部が、まだ消えずに漂っているように感じられた。