この道が俺の学校だった
アフガニスタンは多民族国家である。最大民族であるパシュトゥーン人でさえ全人口の四十パーセント程度を占めているに過ぎず、二十五パーセントを占めるタジク人や二十パーセントを占めるハザラ人の他にも、ウズベク人やトルクメン人など様々な少数民族が暮らしている。話す言葉もパシュトゥー語、ダリ語、トルコ語系言語など、民族によって異なっている。
アフガニスタン北部に位置するマザーリシャリフは、そのような「民族のモザイク状態」をよく表している町だった。この町を歩くと、青い目のタジク人や、日本人によく似たハザラ人など、様々な顔に出会うことができた。
アフガニスタンは確かにひとつの国ではあるけれど、国家に対する帰属意識や忠誠心は、日本やアメリカのように強くはない。アフガン人にとって「国」という存在は、時には協力し、時には敵対し合ってきた様々な集団を大まかに包み込む「ゆるい枠」のようなものに過ぎないのではないか。この町で出会った何人もの人と話をするうちに、僕はそんな風に考えるようになった。
マザーリシャリフの道端でマンゴーを売っているハザラ人のカマールさんは、独学で学んだという英語を生かして、外国で働きたいと考えていた。彼はとても流暢に英語を話せたが、文字は全く読めないのだという。
「英語だけじゃなくて、ダリ語の読み書きもできないんだ」と彼は言った。「俺の子供の頃は、戦争の真っ最中だったから、学校へ行く余裕なんてなかったんだ。二十年間、ずっと道で物売りをして稼がないと食っていけなかったからね」
「それなのに、どうして英語が上手なんですか?」
「それはこうやって外国人が通るたびに、自分から話し掛けてきたからだよ。ここらあたりにはジャーナリストや援助関係者がよく通るんだ。君みたいな旅行者もたまに来る。この道が俺の学校だったんだ」
学ぼうという気持ちさえあれば、どこでだって学べる。そんな彼の言葉には強い説得力があった。
六年前にタリバンがマザーリシャリフを占領した時、カマールさんと彼の家族はパキスタンのクエッタに逃げた。タリバンが彼らハザラ人を迫害することを恐れたからだ。その後カマールさんはクエッタの町でバナナを売って暮らし、タリバン政権が崩壊した直後に、故郷に帰ってきた。
「でも俺はいずれこの国を出るつもりなんだ。タリバンはいなくなったけど、この国にはまだ本当の意味での自由はないからね。俺たちハザラ人にとっては、相変わらず住みにくい国なんだ。将来はアフガニスタンも変わるだろう。でも、それには何十年もかかるだろう。そんなに待つのはご免だよ」
彼は売り物のマンゴーの皮をするすると剥いて、僕に渡してくれた。よく熟した甘いマンゴーだったが、ひとつ十アフガニ(二十円)というのは、アフガニスタンの物価レベルを考えると、やや高いようにも思った。それでも屋台は繁盛していたから、彼にはきっと商売の才能があるのだろう。
「でも、どうやって外国に出るんですか?」
「うん、それが一番の問題なんだ。三年前までは簡単だった。『タリバンに殺されるから助けてくれ』と言ったら、ヨーロッパの国が難民として受け入れてくれた。でも今はそれができない。『アフガン人はアフガニスタンに帰れ』と言われる。警察に見つかれば強制送還さ」
「それじゃどうするんですか?」
「まぁいろいろ手はある。密入国というやつさ。まずブローカーに金を払って、イランからトルコに連れて行ってもらう。それから船でトルコからイタリアに渡る。貨物船の中に紛れ込むんだ。EUに入ってしまえば、後の移動はかなり楽になる。最終目的地はスウェーデンなんだ。今のところヨーロッパでアフガン難民を受け入れているのはスウェーデンだけだからね。そこで難民申請をして働くつもりさ」
彼は現在、毎月の稼ぎの半分を外国へ渡るための準備資金として貯めている。しかしたとえ一〇〇〇ドルという高額な現金を用意できたとしても、国境警備兵の目を盗んで越境するのは容易ではない。彼の知り合いも何人かヨーロッパ行きを試みたのだが、大半は失敗に終わって強制送還されてきたのだという。
「はっきり言って、成功の確率は高くない」と彼は言った。「でもこの国で働き続けたって、良い生活は望めない。だから少ないチャンスであっても、それに賭けてみるしかないんだ」
難民として何年も外国で過ごしたアフガン人が続々と故郷に帰る中、仕事が見つからずに再び外国への出稼ぎを望む人も増えているという。経済基盤が整っていないアフガニスタンには、その人口に見合うだけの雇用がないという厳しい現実もあるようだった。
アイスクリーム職人には腕力が必要
アイスクリーム屋で働くタジク人のダウールは、ごつい体をしているわりに人懐っこいところのある青年だった。彼もまた、独学で覚えたという英語をなかなか上手く話した。彼が最初に目を付けたのは、僕の腕時計だった。
「お、その時計かっこいいね。ちょっと見せてくれよ」
ダウールはそう言って、僕の小さな緑色のデジタルウォッチを珍しそうに眺めた。どういうわけか、僕の腕時計はアフガニスタンではやたらと評判が良かった。プラスチック製の半透明の本体と、伸び縮みするゴム紐のベルトは、いかにもオモチャっぽいチープなものだったが、そんな腕時計を初めて目にするアフガン人にとっては、新鮮で格好良く見えるようだった。
「ねぇ、良かったら俺の時計と交換してくれない?」
彼は真顔で言った。そして自分の腕に巻いていたカシオ製の多機能ウォッチを外して、机の上に置いた。
「そりゃ交換するのは構わないけどさ、君の時計の方が絶対いいものだよ。実はこれ、インドで買った一ドルの安物なんだ」
僕は正直に説明して、交換の申し出を断った。防水加工も何もない安物で、いつ壊れたっておかしくない代物なのだ(実際、この三ヶ月後には動かなくなってしまった)。
「なんだ、インド製なのか。メイド・イン・ジャパンじゃないのか・・・」
ダウールはガックリと肩を落とした。僕の時計が評判になったのは、僕が日本人であり、その日本人が身に着けているんだから日本製に違いない、という思い込みのせいでもあるようだった。腕時計の世界でも「メイド・イン・ジャパン」の持つブランド力は、やはり相当なものなのだ。
「それに君みたいな太い腕の男が、こんなかわいらしい時計を着けていたら変じゃないか」
と僕は笑って言った。彼の肩から腕に掛けての筋肉は、ボディービルダーのように発達していたのだ。
「腕力がないと、良いアイスクリームは作れないからね」
ダウールは自慢げに力こぶを作って、にっこりと笑った。Tシャツの袖が伸びきるほどの見事な力こぶだった。
アイスクリーム職人に腕力が必要なのは、本当のことである。アフガニスタンのアイスクリームは手作りだからだ。作り方は次のようなものである。まずミルクや砂糖や香料などの原料となる液体を鍋を入れ、それを氷と塩がたっぷり入った容器の中に入れる。そして、原料の入った鍋を氷に押し当てながらゴリゴリと左右に回す。それを長いこと続けていると、鍋に入れた原料が徐々に凍ってきて(氷に塩を加えると氷点下まで温度が下がるという性質を利用している)、冷凍庫もなしにアイスクリームが作れてしまうのだ。しょっちゅう停電を起こすアフガニスタンでは、いまだにこの原始的とも言えるやり方がリーズナブルなのだろう。
町をひとまわりしてから、夕方に再びアイスクリーム屋を訪れてみると、ダウールが「仕事はもう終わったから、僕のアパートで一緒に夕飯を食べないか?」と誘ってくれたので、お邪魔することにした。
僕らはまず今夜食べるパンを買い求めるために、市場へ向かった。夕方の市場はお祭りの夜の参道のような賑わいを見せていた。焼きたてのパンを手に持って声を張り上げる男達が、入り口付近にずらっと並んで いる。お客はパンを直接手で触り、温かさと柔らかさを確かめてから、値段の交渉をする。
「最近、パンの値段も上がってきてねぇ」とダウールは愚痴るように言った。
粘り強くパン屋と交渉したものの、結局相手の言い値で買わされたことが、彼には不満なようだった。アフガニスタンの物価はずっと上がり続けているのだ、と彼は言う。確かにパキスタンからアフガニスタンに入ったときに、僕がまず感じたのは物価の高さだった。宿代はもちろんのこと、交通費も食費もパキスタンに比べてかなり割高だった。
アフガニスタンは工業製品のほとんどをパキスタンや中国などの周辺国からの輸入に頼っている国であり、モノの値段が割高になるのは仕方がないのだが、僕が不思議だったのは、それでも町にモノが溢れているという現実だった。長く続いた内戦で国内経済は疲弊しているはずなのに、これは一体どういうことなのだろう。
「金を持っている奴はけっこういるんだ」とダウールは言った。「でも、それは政府にコネがある連中に限ってのことだ。例えば、あそこのランドクルーザーに乗っている男。彼はただの農民だったんだ。でも彼の親戚に政府の役人がいるから、仕事もしないのにあんないい車を乗り回すことができるんだ」
「外国から入ってくるお金を、一部の人間が独占しているってことかい?」
「僕も詳しいことは知らない。でも、僕たちの生活は変わらないのに、金持ちが増えているのは確かだね」
現在のアフガニスタン経済は外国からの援助で回っているのだという話は、その後も何人もの人から聞いた。援助の恩恵が平等に行き渡っていないという不満も、あちこちで聞かれた。
このような援助とその利権にまつわる問題は、アフガニスタンだけに限らず、ネパールやバングラデシュといった被援助国に共通してあることだった。しかしアフガニスタンの場合は、政治体制の変化も劇的だったし、資金援助の額も大きかったので、そこに生まれてきた矛盾も大きなものになってしまったのだろう。
ダウールの住むアパートは、市場のすぐ隣にあった。コンクリート剥き出しのみすぼらしい外観と、半分崩れかけた階段は、戦時中の廃墟のようでもあったが、建物の中は比較的まともだった。電気も通っているし、共同の水場やトイレもある。ダウールの部屋は十畳ほどの広さがあり、そこにルームメイトのムハンマドと二人で暮らしている。
「なんにもない部屋だろう?」と彼は言って笑った。
確かに家財道具は必要最低限のものしかなかった。部屋の隅に置かれた二組の布団、自炊のためのガスコンロと鍋、やかんと魔法瓶と食器、停電時のための石油ランプ、あとは何冊かの本と英語の辞書があるだけだった。
夕食の献立は、さっき買ってきたパンを主食にして、あとはお米を炊いておかずにするという。みじん切りにしたタマネギを鍋で炒め、そこに缶詰のトマトペーストを混ぜて、ご飯と水を加えて炊き上げる。味付けは塩のみ。なんだか食料が尽きた山小屋で食べる最後の晩餐みたいだった。
「ここの家賃はひと月に二十五ドル。これは僕らが出せるギリギリの金額なんだよ。真夏のマザーリシャリフはとても暑くなるから、この部屋にも扇風機が必要なんだけど、今のところそれを買うお金もない。しょうがないから食費を削っているんだ。せっかく来てもらったのに、ろくなものが無くて申し訳ない」
「そんなことは気にしないでくれよ」と僕は首を振った。もともと豪華なディナーにありつけるだろうという期待なんて、これっぽっちも持っていなかったのだ。
この国は戦争だけをしていた
ご飯が炊き上がるのを待つ間、ダウールは二年前の戦争のことを話してくれた。彼はアメリカ軍のアフガン侵攻作戦に呼応して、タリバン軍と戦った北部同盟側の兵士の一人だったのだ。
「今はご覧の通り平和だけどね、二年前はこの町でも大きな戦闘があったんだ。大通りを挟んだビル同士で激しい撃ち合いをした。僕らはアイスクリーム屋のあるビルの二階に立て籠もって、通りに出てきたタリバン兵を狙撃した。ああ、何人か殺したよ。四人か五人ぐらいはやったはずだ。殺さなければこっちが殺されるからね」
彼は二週間続いたという戦闘の様子を、遠い日の思い出話のように淡々と語った。ダウールのような優しい目をした普通の若者が凄惨な殺し合いに巻き込まれていったという現実は、僕の想像を超えるものだった。僕はただ黙って、彼の話に耳を傾けることしかできなかった。
「これはその時に負った傷なんだ」
ダウールはそう言ってTシャツをまくり上げ、左脇腹に生々しく残る傷跡を見せてくれた。彼のすぐ近くで砲弾が炸裂したときに、その破片が突き刺さったのだという。
「あのときは死ぬと思った。死ぬことは別に怖くはなかった。父さんや母さんにもう会えないんだな、と思っただけだ。でも死んだのは僕じゃなくて、一緒に戦っていた兄さんだったんだ」
ご飯が炊き上がったので、僕らはしばらく黙って夕食を食べた。隣の部屋のラジカセからアフガン民謡の歌声がくぐもって聞こえてくる以外は、とても静かな夜だった。
「今でも戦争のことを思い出すことはあるのかい?」と僕は訊ねた。
「ああ。忘れたくても忘れられないものだからね。今でも時々、真夜中に銃声が聞こえてくることがある。爆弾が炸裂する音、機関銃の連続音、ヘリコプターのプロペラの音、そういうのがあちこちから響いてくるんだ。また戦闘が始まったのかと、僕は慌てて飛び起きて、窓の外に首を出してみる。でもその瞬間に全ての音は止む。それは僕の頭の中だけで鳴っていたんだ」
ダウールは食べ終えた食器を片づけると、魔法瓶に作り置きしてあるお茶をグラスに注いだ。
「戦争は誰にとっても嫌なものさ。でも僕らは戦わなければいけなかった。平和を取り戻すためにね。パシュトゥーン人は僕らの敵だったけど、今は彼らを憎んではいない。もうタリバンはいないし、戦争は終わったんだ。でも・・・」
「でも?」
「・・・でも、これから先もこの平和が続くのかはわからない。僕が生まれてからずっと、この国は戦争だけをしていたんだからね」
僕はダウールに対して、「大丈夫、平和は続くさ」とは言えなかった。軽々しく「平和」という言葉を口にするのは、その目で様々な現実を見てきた彼に対して僭越だという気がした。
今のマザーリシャリフには、戦争の傷跡はほとんど残っていない。建物は修復され、民族同士の亀裂も表面上は埋まり、人々は日常生活を淡々と送っているように見える。しかし、その内側に破壊と殺戮の記憶が生々しく刻み込まれているのもまた事実だった。Tシャツの下に隠された脇腹の傷跡のように、それは簡単に消えるものではないのだ。
ダウールの将来の夢は、自分の店を持つことと、結婚して子供を多く持つことだという。平和がこの先も続けば、その夢はきっと叶うだろうと僕は思った。