今回は7月31日からキヤノンギャラリー銀座で行われた写真展「ミャンマーに架かる虹」の在廊レポートをお送りします。
 

7月31日(初日)

 10時半。いよいよ写真展が開幕。
 写真集『写真を撮るって、誰かに小さく恋することだと思う。』を最初に購入してくださったのは、ゲームデザイナー兼写真家の浅井さんだった。ご自身もニコンサロンでチベットの写真展を開かれたばかり。才能あふれる若手写真家の一人だ。
 
 浅井さんは標高4000メートルの山奥の村で、野良犬に噛みつかれた経験がある。そのときはチベット人が素早く手当てしてくれたお陰で事なきを得たのだが、「狂犬病にかかるのでは」という不安はしばらく頭を離れなかったそうだ。チベット犬って、大柄で力も強くて、相当怖いらしいですよ。
 

 
 会場のキヤノンギャラリー銀座は、キヤノンのショールームとサービスセンターに隣接しているので、キヤノンユーザーがぶらっと立ち寄ることが多い。特に午前中は「写真展巡り」を趣味にしているお年寄りの姿が目立つ。自らに課した義務のように、あるいはスタンプラリー的な気持ちで、メーカーギャラリーをひとつずつ巡回しているのだ。そういう人たちの目に僕の写真がどう映っているのかはわからない。彼らは総じて寡黙で、無表情のまま去って行くからだ。
 
 有名な写真家のワークショップに通っているという女性が、ポートレートの撮り方について質問してきた。
「ピントはまつげに合わせているの? それとも瞳?」
 思わず「そんなのどっちでもええやん!」と突っ込みそうになったが、言葉には出さなかった。もちろん、1ミリのピントのズレが写真に与える影響は無視できない。特に絞り開放で被写体に寄っている場合には。でも、人物の表情を撮っているときには、1ミリのピントのズレよりも優先すべき事がたくさんある。細部にこだわるのは大切だけど、あまり意味のないところにまでこだわるのは良くない。目の前の人間は静物ではなく、生きているんだから。
 
 

8月1日(二日目)

 写真界の重鎮・田沼武能さんがやってきた。田沼さんは開口一番、
「40年前のミャンマー人はこんなにいい顔で笑わなかったよ」とおっしゃった。「貧しくて、栄養も足りなくて、表情も暗かった。ミャンマーも豊かになったんだね」
 田沼さんが取材した1970年代は、ミャンマーがもっとも貧しい時代だった。第二次世界大戦前までは東南アジアでももっとも豊かな国だと言われていたのに、軍事クーデターが起こって「ビルマ式社会主義」の時代になると、経済は行き詰まり、アジア最貧国にまで転落してしまったのだ。
 そういう厳しい時代を経て、ミャンマーはやっと経済成長への道のりを歩き始めた。人々の暮らしが本当に変わるのはこれからだろう。10年後、20年後に人々の表情がどう変わるのか。見守っていきたいと思う。
 
 『撮り旅!』の編著者である山本さんも来てくださった。山本さんは長年ラダックを撮り続けているが、次はアラスカでキャンプをしながら紅葉を観る旅をする予定なのだそうだ。同じところに何度も通っていると、いい意味でも悪い意味でも慣れてきて、新鮮さが失われてしまう。だから旅慣れた土地とは反対の方向に向かう。いずれ自分のホームに戻ってくるために。
 

 
 鎌倉から来てくださった林さんは、「旅音」という夫婦ユニットで旅本を何冊も出版されているカメラマンだ。「旅音」の存在は10年以上前から知っていて、「たびそら」と「たびおと」という語感の近さから勝手に親近感を抱いていたのだけど、実際にご本人にお会いするのは初めてだった。最近は4歳の息子さん(チビオト君)と一緒に一家三人で旅しているそうだ。
 
 ミャンマー旅行を計画している方も何人か来られたが、亀山さんの場合は、なんと今から成田空港に行って、バンコク経由でミャンマーに向かうというジャストタイミングだった。休暇を取ってはミャンマーに通い、インレー湖周辺の人々をモノクロで撮影しているという。それをまとめた「タナカ」というタイトルの写真集を去年出版されたそうだ。
 
 スーツケースをゴロゴロと引きながら入ってきた男性は「実は僕の奥さんはミャンマー人なんですよ」と言った。10年前にミャンマー滞在中に知り合って結婚したのだそうだ。彼は美容師が使うハサミを作る会社の営業担当で、いつも銀座近辺の美容院を回っているのだが、その途中でたまたま写真展の看板を目にして、ふらっと立ち寄ったのだそうだ。「この写真集、奥さんに見せたら喜ぶと思います」と言ってくださった。
 

 
 銀座は世界中から観光客が集まる場所なので、外国人観光客がふらっと迷い込んでくることもある。閉館間際に入ってきたのはアメリカ人の家族だった。最初は「ミャンマー? それどこなの? タイの隣? へぇ、知らなかった」なんて言ってたけど、写真展を見終わる頃には「この国に行きたくなったよ」と言ってくれた。平均的なアメリカ人はミャンマーについて詳しくないようだ。日本人がグアテマラやベリーズについてほとんど何も知らないのと同じように。
 
 写真集を買ってくれた彼に、「日本語読めるの?」と訊ねると、
「ノー」と首を振った。「でも、写真に言葉はいらないじゃないか」
 その通りだ。写真には国境がない。言葉の壁もない。伝わるものはすぐに伝わる。
 翌日の朝、彼はまた写真展会場に来て、写真集をもう一冊買ってくれた。
「ホテルに戻って読んでみたらさ、すごく気に入ったんだよ」
 と言った。素直に嬉しかった。
 
 2日目が終わった後、有名ブロガーでカメラマン&ライターのかさこさんが取材してくれた。かさこさんのブログは以前から読んでいたのだけど、実際にご本人にお会いするのは初めてだった。銀座の喫茶店で3時間も話し込んでしまった。すごく面白かったので、この話はあとで書きます。
 
 

8月2日(三日目)

 今回の写真展でもっとも多かった質問が、「この女性はアウンサンスーチーさんですか?」というものだった。
 

 
 言われてみれば確かに似ている。美人だがちょっとやつれた感じがそっくりだ。でも、本物のアウンサンスーチーさんは現在69歳だし、将軍の娘で英国留学もしている「いいとこのお嬢さん」だ。町工場の女工として織機を動かしているはずがない。
 
 思い込みの力なのだろう。「ミャンマー人女性=アウンサンスーチー」というメディアからの刷り込みによって、そう見えてしまうのだ。(ちなみにミャンマー人には姓がなく、名だけなので、「アウンサンスーチー」という表記が正しいようだ)
 
 写真展にはいろんな人が来る。ほとんどの人は熱心に写真を見てくれるのだが、中には写真には目もくれずに、ひたすら自分の話したいことだけを話して去っていく奇矯な人もいる。ベトナム戦争時のドミノ理論と、中国のシーレーン防衛についての自説をひとしきりぶって帰っていった人もいたし、反対に(という言い方が適切かはわからないが)安倍政権の右傾化と、南京大虐殺について反省を迫られている日本の立場を一方的に話すだけの人もいた。
 
 写真展で販売していたCD-ROMに異様なほど興味を引かれて、CD-Rというメディアの不完全性や、ディスプレイのキャリブレーションの必要性について熱弁をふるい、(当然のごとく)CD-ROMは買わずに帰っていく人もいた。
 
「ミャンマーは昔マライって言ったんだよ」という新説を披露してくれた老人もいた。
「それはビルマのことでしょうか?」僕がやんわりとただすと、
「いやマライだよ。あんた若いから知らないかなぁ、マライのハリマオって映画があってさぁ」
 頑として譲らない。困った人である。
 Wikipediaによれば、昔マレーシアに「マレーのハリマオ」と呼ばれた盗賊・谷豊なる人物が実在したらしい。盗賊からスパイになった谷は「マライの虎」「ハリマオ」という映画のモデルにもなり、軍国主義時代の英雄に祭り上げられた。老人の記憶はこのハリマオ氏とビルマがごっちゃになっているようだ。
 
 世の中にはいろんな人がいて、それぞれに話したいことを抱えているんだなぁ、なんてことを考える日々でもあったわけです。
 

 
 

8月4日(四日目)

 中谷さんは2003年に僕が初めて開いた写真展(笹塚の喫茶店・茶香間)に来てくださって以来、ずっと僕の活動を応援してくれている。70歳になってから(戦後の混乱期で通えなかった)夜間中学校に通い始めたり、長年にわたってブログの更新を続けたり、『96歳の遺言』という戦争体験記の電子書籍を制作したりと、実にエネルギッシュな人だ。
 
 「ブータン写真家」の関健作さんは、スキンヘッドでいかつい感じにも見える風貌とは裏腹のとても物腰が丁寧な好青年だった。青年海外協力隊員として3年間ブータンに滞在しているあいだ、学校に通う子供たちの姿を写真に収めてきた。現在はブータンの現状を伝える講演活動で忙しい日々を送っている。年間100回を超える講演をこなすというからすごい。でも「荒れている」中学校で講演するときは気持ちが萎えることもあるという。「めちゃくちゃガン飛ばしてくるんで、マジ怖いんっすよ」
 
 主にインド圏を撮影している写真家の武藤弘司さんは、写真館で働きながら毎日ボクシングジムに通っている。ボクシングで鍛えた反射神経と体力が、インドやパキスタンなどでの長期旅行で役に立つからだ。
 武藤さんは写真展を開くための費用捻出に、いつも苦労している。長いあいだフィルムで撮影していたこともあって、写真展で展示するプリント代だけでかなりの額になってしまうのだ。一度写真展を開くと、一回の長旅で使うのと同じぐらいの出費になるから、旅に出るのもままならないという。
 
 僕は写真展にはなるべくお金をかけずに、そのぶん取材旅行や機材に回すべきだと考えている。写真家は「撮ってなんぼ」だし、写真を発表する場は写真展だけではないからだ。だからまぁ、今回の展示もかなり低予算で実現させた。
 
 大学院でミャンマーに住むムスリムを研究していたという男性がやってきた。彼は父親が転勤族だったために、小さい頃から引っ越しを繰り返して苦労した。転校するたびに言葉の訛りを馬鹿にされ、仲間はずれにされることも多かった。自分の故郷はどこなのか。アイデンティティーのありかたに悩み続けてきた。だから移民問題に関心を持つようになったという。自分が生まれ育った場所を離れて異国で暮らす人々のリアルな姿を知りたいと思ったのだ。
 

 
 ミャンマーに住むムスリムは、多数派の仏教徒としばしば対立してきた。ときに大規模な暴動に発展し、死者が出ることもあった。ミャンマーの場合には、単なる宗教対立ではなく、民族対立の側面が強い。もともとビルマ族が大多数だった社会に、インドから多くのムスリムが入ってきたのは英国植民地時代だった。彼らは宗教だけでなく、顔つきも性格も違っていた。両者のあいだには簡単に折り合うことのできない高い壁があって、それが今もなお続いているのだ。
 
 

8月5日(五日目)

 会場に入ってくるなり「こりゃ全部見るのに2時間はかかるなぁ」とおっしゃった岩田さんは、宣言通り2時間以上会場に滞在された。今回の写真展における最長滞在記録だ。
 岩田さんは美大でプロダクトデザインを学んだ後、なぜか北海道の牧場でカウボーイをやっていたのだが、自動車メーカーに誘われて商用車の車体デザインをすることになったという。定年退職してからは、絵を描いたり(水牛の頭骨!)、パフォーマンスアートの記録映像を撮ったりしている。埼玉にある自宅はなんと築250年を超えるという古い農家で、家の敷地は防風林の覆われているという。この夏は「アジアの一員として」冷蔵庫の電源をオフにする生活を送っているのだそうだ。
 岩田さんの人生は実にカラフルだ。「面白い!」と思ったものには一直線、という素直さがある。そしてどういうわけか1ヶ月前に僕の存在を知り、毎日のように「たびそら」を見るようになって、ついに写真展にたどり着いたのだった。
 
「セパタクローっていう文字を見るだけで、テンションが上がるんです」と言ったのは北海道大学でセパタクローの選手をしていた男性だった。「マイナースポーツですからね、こうやって取り上げられるだけでも嬉しいんですよ」
 

 
 セパタクローは東南アジアではとてもポピュラーなスポーツだが、日本では超マイナーで、競技経験者も1000人ほどだという。サッカー経験者が有利なのかと思いきや、実はそうでもないのだという。ボールの大きさも重さも違うし、キックする場所も違う。だからサッカー経験者が必ずしもセパタクローに向いているわけではない。
「以前、タイから来た留学生と試合をしたことがあったんですけど、全然レベルが違いましたね。彼らは子供の頃からやっているから、センスが違うんですよ」
 
 セパタクローが日本のメディアで取り上げられることは滅多にない・・・なんて書いていたまさにそのときに、驚くべきタイミングでテレビ局からメールが来た。TBSで放送するアジア大会で、ミャンマーのセパタクロー選手を紹介するときのVTRに、ミャンマー伝統の蹴鞠・チンロンの動画を使いたいという。オンエアは8月12日(火)10:59~だそうです。
 
 

8月6日(最終日)

 今日が最終日。3時までの短縮営業なので、朝から混み合っていた。
 
 中南米を1年半旅したという森井勇介さんは、ファッションデザイナーとして先住民の民族衣装に関心があり、自らアルパカの毛を使った織物を織れるようにもなったという。ミャンマーの人々が民族衣装ロンジーを当たり前に着こなしている姿に感銘を受けていた。
 
 以前、僕の写真教室に参加してくれた若いご夫婦がやってきた。入籍は2年前に済ませているのだが、その後も世界各地でウェディングドレスを着て写真を撮っているという。旦那さんは奥さんを撮るために5D-mark3を買ったのだそうだ。「ウェディングフォトは一生に一度」という常識を打ち破り、夫婦で楽しむ「趣味」にしてしまったのだ。
 

 
 3時に閉館。急いで撤収作業を行う。
 あっという間に片付いて梱包された写真たちは、次の会場である梅田に送られていった。
 
 この一週間、いろんな人が来て、いろんな話をした。
 写真展は旅に似ていると思う。旅と違うのは、僕が動くのではなく、お客さんを迎える側にいたということだ。
 
 旅で撮った写真たちが、今度は日本各地を旅することになる。
 東京を離れ、大阪、名古屋、仙台へ。
 写真たちの旅は、まだまだ続きます。