プロの写真家になるためにそれなりの努力はしてきたつもりだけど、それを苦痛だとか苦労だと思ったことは一度もない。自分が没頭できることに全力で取り組んできた、ただそれだけだ。自分が向上するための努力って、楽しいしワクワクするもの。勉強でも仕事でも、それは同じだと思う。
でも、僕がそういう結論に達したのは、25歳で会社を辞めた後だった。それまでは無意味な忍耐こそが努力だと思っていた。得意分野を伸ばすよりも、不得意な分野を消すことの方に多くのエネルギーを使っていた。その結果、自分には何が適しているのかが見えなくなってしまっていた。
大学時代が特にひどかった。工学部の出来の悪い落第生だった。今でも時々夢に見るのは、3年連続で単位を取り損ねた熱力学の試験が目前に迫っているという悪夢だ。そのとき徹夜で勉強して、なんとか単位を取った熱力学も電磁気学も、20年後の今ではきれいさっぱり記憶から欠落している。そのときの僕にとっては本当に無意味な苦行でしかなかったのだ。
僕が今「写真家こそ天職だ」と思えるのは、写真を学ぶことも実践することも教えることも、楽しくて仕方ないからだ。朝目覚めて「さぁ今日はインドをどう切り取ってやろう」と考えるだけで胸が高鳴る。うまく行っても行かなくても、確かな手応えが残る。今この瞬間のために生きているんだって実感できる。
他人の評価やお金とは関係なく、純粋な表現として「美しい一枚」が撮れたとき、僕は深い満足感を味わう。今、ここに立っている自分にしか撮れない唯一無二の瞬間を記録する。それは何物にも代えがたい喜びだ。心が震える瞬間だ。
夢中になれること、没頭できることに真剣に取り組んでいれば、無意味な忍耐や苦行にエネルギーを割こうとは思わなくなる。自分が不得手な分野は誰か得意な人に任せればいい。だから僕はこう思う。「もしあなたが今している努力を苦痛に感じるんだったら、心が本当に求める別の場所を探してみたら」と。
もちろんフリーランスのフォトグラファーはラクな職業でない。どこにも属さず、決まったサラリーを貰わないでフリーランスとして生きていくのは、どんな分野であっても大変だ。でもそれを乗り越えた者だけが味わえる「自由の味」は格別だ。何よりも「やりたくないことをやらないで済む自由」がある。
努力とは無意味な忍耐ではなく、より主体的に生き生きと喜びを感じながら行うべきものだ。最新の心理学や脳科学の研究からも「人間は好きなものからしか学べない」という結果が示されている。自分が好きなものに取り組むときに脳内の報酬系が働き、それが学びのフィードバック回路を起動させるのだ。
世界で活躍するスポーツ選手が「楽しみたい」と異口同音に語るようになったのは、選手が楽しんでいるときにベストパフォーマンスが引き出されることがスポーツ心理学ではっきりしたからだ。国民の期待を背負ったかつての一流選手が大事な試合で重圧に負けたのとは対照的に、楽しむ選手は結果を残している。
これはアスリートやフリーランサーに限った話ではない。サラリーマンでも公務員でも自営業者でも、自分が楽しめる仕事に取り組んでいるときにパフォーマンスが最大限に高まり、学びと成長の回路が起動するのは同じだ。
そのためにも「心が本当に求める場所」を探すことが重要だ。職場を変え、職種を変え、生き方そのものを変えることをためらってはいけない。何しろ我々は70歳でも現役バリバリで働く社会を生きることになるのだから。意に染まない仕事をダラダラと続けるには、人生はあまりにも長すぎる。
45歳なんて、人生の通過点のひとつに過ぎない。何も固まってなどいない。
僕はこれからも変わり続けるだろう。努力を楽しみながら、今この瞬間にここにいられる喜びを噛みしめながら、旅を続けていくだろう。