0858 ベトナムの顔といえば、やはりホーチミンをおいて他にはいない。
 フランスの植民地支配から抜け出し、アメリカとの泥沼の戦争をゲリラ戦で勝ち抜いたベトナム国民の英雄ホーチミン。亡くなってから30年以上が経っているけれど、彼は今でもベトナム人の心の拠り所である。

 ホーチミンがベトナムという国のシンボルであることは、通貨「ドン」のデザインが見事にホーチミン一色であることからもわかる。ベトナムはインフレが進んだせいで、100ドンから5万ドンまで9種類もの紙幣(硬貨はない)が流通しているのだが、これら全てにホーチミンの肖像が印刷されているのだ。この国には、他に描くものがないのだろうか?

 
 

ホーチミンの遺体はどこか哀しげだった

 ハノイ滞在3日目。この日の夜行列車でフエへ発とうと思っていた僕は、最後にホーチミンの遺体が保存されている「ホーチミン廟」に行ってみることにした。お札や写真だけではなく、本物の顔を拝んでみたくなったのだ。

 喧騒と混沌に満ちたハノイ市街の中にあって、廟の周囲だけは別世界の静寂に包まれていた。霊廟はギリシャ神殿風の仰々しい建物で、これが国家の威信を象徴するものなのだということが、ひしひしと伝わってきた。霊廟に隣接した広場には、巨大なベトナム国旗が翻っていた。

 僕ら見学者は、まず入り口で荷物とカメラを預けさせられる。帽子も脱がなくてはいけないし、サングラスも外さなくてはいけない。そして規則正しく二列に並ばされ、決められた順路を歩かされる。順路から逸れたり、列を乱したり、友達同士で話したりしたら、すぐに深緑色の制服を着た兵隊に注意される。ホーチミンの前で、不敬は許されないのだ。

 遺体が安置されている部屋は、Tシャツだと肌寒さを感じるぐらいにひんやりとしていた。たぶん遺体保存に適した温度に調節されているのだろう。ガラスケースに収められた棺の周りには、四人の兵士が地下に眠る兵馬庸の人形のように直立不動の姿勢を保って立っている。そして照明が落とされた薄暗い部屋の中央に、スポットライトが当てられた老人の顔が白く浮かび上がっている。

 遺体の状態は完璧だった。肌にはつやがあり、長く白い髭は今でも少しずつ伸びているように見えた。今にも、30年の眠りから目覚めて、ゆっくりと太極拳を始めそうだった。
 でも、僕の目にはホーチミンの遺体はどこか哀しげに映った。

 
 

ベトナムにはシンボルが必要だった

0809 そもそも遺体に恒久的保存を目的とした防腐処理を施すようになったのは、ソ連を率いたレーニンが最初だった。1924年、ロシア革命を成功させた国家的英雄・レーニンが亡くなったとき、後継者スターリンは彼の遺体を保存し、霊廟に安置することを決定する。そこにはレーニンの偉業を称えるという表向きの理由と、レーニンの遺体というシンボルを借りて、国民の党に対する忠誠心を確かなものにしたいという、政治的な思惑があった。
 遺体を保存し崇拝するというような行為は、レーニン自身の思想とは全く相容れないものだったが、スターリンはロシアの民衆の中に聖遺物崇拝の伝統が強く残っていることを利用したのだ。

 それから、世界各地の社会主義国の指導者が死ぬと、その遺体をソ連の技術によって防腐処理し、霊廟に保存することが慣習化していった。モンゴルのチョイバルサン、チェコスロバキアのゴットワルト、アンゴラのネト、北朝鮮の金日成。1953年には、発案者スターリン自身も防腐薬液の中に身を浸されることになった。
 ただし中国の毛沢東だけは例外で、彼は中ソ関係の悪化もあって、中国人科学者の手によって防腐処理が行われた。

 1969年、ベトナム戦争の最中に亡くなったホーチミンも、ソ連から派遣された遺体保存チームによって防腐処理が施された。遺体は、アメリカ軍の激しい空爆に晒されていたハノイを逃れて、密林の秘密アジトに収容された。兵士達の士気を高め、戦争を戦い抜くために、ホーチミンは死後も生き続けることを求められたのだ。三国志の諸葛孔明のように。

 ベトナム戦争が終わってからも、ホーチミンが埋葬されることはなかった。15年に及んだ戦争がベトナムに残した傷は、あまりにも深かった。300万というおびただしい数の人間が死に、緑豊かな国土は爆撃で焼かれた。ベトナム人は自分達の手で何とか立ち直らなくてはいけなかった。その為にはホーチミンというシンボルが必要だったのだ。

 ホーチミン自身は生前、自分の遺体が保存されることを強く拒んだという。それでも国家はそれを許さなかった。シンボルであり続けて欲しいと願った。霊廟の中のホーチミンは、本来あるべき姿ではない。だから、彼の姿は哀しげに見えるのかもしれない。

 スポットライトを浴びて白く輝くホーチミンの顔は、「カリスマ的革命家」というよりは「田舎の物知りおじいちゃん」の方がぴったりと来るような、穏やかな表情をしていた。そんな彼に古代エジプトのファラオのような「永遠の生」を与えることは、やはり間違ったことだと思う。

 かつて防腐処理を施された指導者の遺体は、社会主義諸国の民主化に伴って、次々と埋葬されている。国家が強力なシンボルを必要としていた時代は、終わろうとしているのだ。ロシアでも「レーニンを埋葬するべきだ」という声が高まっているという。

 そう遠くない将来、ベトナムがホーチミンというシンボルに頼る必要がなくなったとき、彼の遺体も埋葬されることになるだろう。「ホーおじさん」が本当の眠りにつけるのは、その時なのかもしれない。

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日本語を教えてもらえませんか?

0929 フエ行きの夜行列車の出発までかなり時間が空いたので、僕はホテルのフロントで本を読んで時間を潰すことにした。この3日間、毎朝僕を起こしてくれた改装工事の音(結局部屋を移っても、やかましさは変わらなかったのだ)は、夜には止んでいたけれど、通りを行き交うバイクの騒音は絶えなかったから、なかなか活字に集中することは出来なかった。

 そんな時に、「アー・ユー・ジャパニーズ?」と話し掛けてきたのは、フロント係のアルバイトをしている若者だった。
「僕に日本語を教えてもらえませんか?」と彼は言った。

 彼はンゴックという名前の23歳の学生で、僕なんかより遥かに上手く英語を話せた。その上、これから増えてくるだろう日本人観光客のために、日本語の勉強も始めたのだという。
「でも、僕の学校には日本語を話せる先生がいないんです。だから本を使って一人で勉強しているんですけど、上手くなりません」

 彼は鞄の中から一冊の古い本を引っ張り出してきた。表紙には、平仮名で「にほんご れんしゅうちょう」と書かれていた。でも、その本は日本語をマスターするためのテキストと言うよりは、手作りの単語帳+簡単な例文集といった程度のものだった。ページの左にはベトナム語、中央には日本語のローマ字書き、右側には英語が記されてあった。印刷は粗悪で、外れたページはテープで止められていた。

「この本は友達から貰いました。その友達も、別の友達から貰いました」と彼は言った。
 お下がりのそのまたお下がりというわけだ。それで室町時代の公家日記みたいに年季が入って見えるのだ。
「でも、これで日本語をマスターするのは難しいと思うよ」と僕は正直に言った。
 まず、この本には文法の説明というものが一切書かれていないし、ぱらぱらとめくっただけでも、ミスプリントがいくつも見つかった。「Garage→Sako(車庫)」「No→Lie(いいえ)」「thief→Dorobu(泥棒)」などなど。
 これを使って「さこに どろぶが はいったのですか?」「りえ ちがいます」なんてやり取り練習をやっていたら、目も当てられない。
 僕はまず、教科書の間違いをひとつひとつ直してから、基礎的な発音練習を始めた。僕も暇を持て余していたし、何よりも彼のひたむきさに応えないわけにはいかなかったのだ。

 
 

わたしは にほんが すきです

 ドイモイ(刷新)政策を推し進めるベトナムは、市場開放とそれに伴う経済成長で急速に変わりつつある。《共に手と手を携え明るい未来の建設を!》というようなプロパガンダ看板は、コカコーラやコダックといった欧米資本の広告看板に取って代わり、チャンスさえ掴めば豊かな暮らしを送れるという希望を抱いた若者達が、農村からハノイやホーチミン市にどっと流れ込んでいる。ちょうど、高度経済成長期の東京と同じような状況なのだ。

「僕は中国との国境に近い村で生まれました」とンゴック君は言った。「小さくて静かな村です。確かにハノイはとてもうるさいですね。でも、もう慣れましたよ。今ではハノイも大好きです。生まれた村と同じぐらい」

 いつの間にか表通りを走るバイクも少なくなり、ロビーは静かになっていた。僕らはそこに椅子を二つ並べて、日本語のレッスンを続けた。彼は間違えたりつっかえたりしながら、何とかいくつかの文章を言えるようになった。
「なんじ ですか」
「にもつを おもちします」
「わたしは にほんが すきです」
 それを聞いていると、まだ旅を始めて十日も経っていないというのに、急に日本のことが懐かしくなった。

「そろそろ行かないと」
 僕は腕時計を見ながら切り出した。
「今日の夜行列車でフエに行くんだ」
 彼は椅子から立ち上がって、右手を差し出した。「あなたは初めてのマイ・ジャパニーズ・ティーチャーです。にほんご、せんせい」 彼は僕の手を握って、何度も日本語で「ありがとう」言った。ちょっと照れ臭かったが、悪い気はしなかった。
「またハノイに来ることがあれば、必ずこのホテルに泊まるよ」「はい。その時はあなたと日本語で話がしたいです」

 そう約束して、僕らは別れた。もう一度、彼と話す機会が訪れるかは、僕にもわからない。いずれにせよ、それがずいぶん先になることだけは確かだった。