バイクタクシーでプノンペン郊外の村を訪ねる
「たくさんの人が死んだ」と彼女は言った。「でも、ポル・ポトは死んだ。クメール・ルージュもいない。終わったんだ」
「たくさんの人が死んだ」と彼女は言った。「でも、ポル・ポトは死んだ。クメール・ルージュもいない。終わったんだ」
2001年1月1日。20世紀から21世紀への変わり目を、僕は蚊帳の中で迎えた。
2週間で、僕の中のベトナム地図はすっかり形を変えた。この先も僕の常識や価値観は揺さぶられ続けるだろう。
高カロリー食品の誘惑に囲まれた環境に育った人間には、痩せることもまた至難なのです。
あの眠たげで半分投げやりな雰囲気というのは、ベトナムの他のどの町にもないものだった。
ベトナムで一番よく食べたものはフォーだったが、ホイアンでは汁なしうどんのカオラウが有名だ。
貸し自転車は、シクロとの料金交渉の必要もないし、好きなところへ行けるから、「行き当たりばったり旅行者」にぴったりの乗り物だ。
ベトナムに来て以来、僕はなぜか「懐かしさ」を感じ続けていた。初めて目にしたはずなのに、ずっと以前から知っているような気がしていた。
最高速度でも、せいぜい時速7,80kmというところだろう。日本人の感覚からすれば、実にのんびりとした特急列車である。
遺体の状態は完璧だった。今にも、30年の眠りから目覚めて、ゆっくりと太極拳を始めそうだった。
ハノイはうるさくて埃っぽくて気忙しい街だったが、同時にとても魅力的だった。何もかもが日本とは違っていた。
『重慶大厦』は節約旅行家のあいだでは有名な安宿ビルで、欧米人や東洋人のバックパッカーも何人か見かけたが、その数は決して多くはなかった。